これだけ持って参りました。あとは小僧さんが届けて呉れるそうでございますわ」
 鼈四郎はつねづね妻にいい含めて置いた。一本のビールを飲もうとするときにはあとに三本の用意をせよ。かかる用意あってはじめて、自分は無制限と豪快の気持で、その一本を飲み干すことができる。一本を飲もうとするときに一本こっきりでは、その限数が気になり伸々した気持でその一本すら分量の価打《ねう》ちだけに飲み足らうことができない。結局損な飲ませ方なのだ。罎詰《びんづめ》のビールなぞというものは腐るものではないから余計とって置いて差支えない。よろしく気持の上の後詰の分として余分の本数をとって置くべきであると。いま、逸子が酒屋へのビール注文の仕方は、鼈四郎のふだんのいい含めの旨に叶《かな》うものであった。
「よしよし」と鼈四郎はいった。
 彼は妻に、本座敷へ彼の夕食の席を設ることを命じた。これは珍しいことだった。妻は
「もし、ひょっとして汚しちゃ、悪かございません?」と一応念を押してみたが、良人《おっと》は眉《まゆ》をぴくりと動かしただけで返事をしなかった。この上機嫌を損じてはと、逸子は子供を紐《ひも》で負い替え本座敷の支度
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