びで、それを眼のあたりに見なければならない運命を思うと鼈四郎《べつしろう》は、うんざりするより憤怒《ふんぬ》の情が胸にこみ上げて来た。ふと蛍雪館の妹娘のお絹の姿が俤《おもかげ》に浮ぶ。いつも軽蔑《けいべつ》した顔をして冷淡につけつけものをいい、それでいて自分に肌目《きめ》のこまかい、しなやかで寂しくも調子の高い、文字では書けない若い詩を夢見させて呉《く》れる不思議な存在なのだ。
「なんだって、自分はあんなに好きなお絹と一しょになり、好きな生活のできる富裕な邸宅に住めないのだろう。人間に好くという慾を植えつけて置きながら、その慾の欲しがるものを真《ま》っ直《すぐ》には与えない。誰だか知らないが、世界を慥えた奴はいやな奴だ」
その憤懣《ふんまん》を抱いて敷居を跨《また》ぐのだったから、家へ上って行くときの声は抉《えぐ》るような意地悪さを帯びていた。
「おい。ビール、取っといたか。忘れやしまいな」
こどもに向き合い、五|燭《しょく》の電灯の下で、こどもに一箸《ひとはし》、自分が二箸というふうにして夕飯をしたためていた妻の逸子は、自分の口の中のものを見悟られまいとするように周章《あわて》て
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