るのであった。
「やあ、先生寄ってらっしゃい」
 けれども、その挨拶振《あいさつぶ》りは義理か、通り一遍のものだった。どの店の人間も彼の当身《あてみ》の多い講釈には参らされていた。
「寄ってらっしゃいたって、僕が食うようなものはありやしまいじゃないか」
「そりゃどうせ、しがない[#「しがない」に傍点]垂簾《のれん》の食もの屋ですからねえ」
 こんな応対で通り過ぎてしまう店先が多かった。無学を見透されまいと、嵩《かさ》にかかって人に立向う癖が彼についてしまっている。それはやがて敬遠される基と彼は知りながら自分でどうしようもなかった。彼は寂しく自宅へ近付いて行った。


 表通りの呉服屋と畳表問屋の間の狭い露路の溝板へ足を踏みかけると、幽《かす》かな音で溝板の上に弾《は》ねているこまかいものの気配いがする。暗くなった夜空を振り仰ぐと古帽子の鍔《つば》を外ずれてまたこまかいものが冷たく顔を撫《なで》る。「もう霰《あられ》が降るのか。」彼は一瞬の間に、伯母から令押被《おっかぶせ》の平凡な妻と小児を抱えて貧しく暮している現在の境遇の行体《ぎょうたい》が胸に泛《うか》び上った。いま二足三足の足の運
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