る木の実の匂いがひとりでにした。佐久間町の大銀杏《おおいちょう》が長屋を掠《かす》めて箒《ほうき》のように見える。
彼はこの横町に入り、トンネルを抜け横町が尽きて、やや広い通りに折れ曲るまでの間は自分の数奇の生立ちや、燃え盛る野心や、ままならぬ浮世や、癪《しゃく》に触る現在の境遇をしばし忘れて、靉靆《あいたい》とした気持になれた。それはこの上|墜《お》ちようもない世の底に身を置く泰《やす》らかさと現実離れのした高貴性に魂を提げられる思いとが一つに中和していた。これを侘《わ》びとでもいうのかしらんと鼈四郎は考える。この巷路を通り抜ける間は、姿形に現れるほども彼は自分が素直な人間になっているのを意識するのであった。ならば振り戻って、もう一度トンネルを潜《くぐ》ることによって、靉靆とした意識に浸り還《かえ》せるかというと、そうはゆかなかった。感銘は一度限りであった。引き返してトンネル横町を徘徊《はいかい》してもただ汚らしく和洋蕪雑《わようぶざつ》に混っている擬《まが》いものの感じのする街に過ぎなかった。それゆえ彼は、蛍雪館へ教えに通う往き来のどちらかにだけ日に一度通り過ぎた。
土橋を渡っ
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