彼は最寄《もより》の電車筋へも出ずゆっくり歩るいて行った。
 一つは電車賃さえ倹約の身の上だが、急いで用も無い身体である。もう一つの理由はトンネル横町と呼ばれる変った巷路《こうろ》を通り度《た》いためでもある。
 いずれは明治初期の早急な洋物輸入熱の名残りであろう。街の小道の上に煉瓦《れんが》積みのトンネルが幅広く架け渡され、その上は二階家のようにして住んでいるらしい。瓦屋根《かわらやね》の下の壁に切ってある横窓からはこどもの着ものなど、竹竿で干し出されているのをときどき見受ける。
 鼠色《ねずみいろ》の瓦屋根も、黄土色の壁も、トンネルの紅色の煉瓦も、燻《いぶ》されまた晒《さら》されて、すっかり原色を失い、これを舌の風味にしたなら裸麦で作った黒パンの感じだと鼈四郎はいつも思う。そしてこの性を抜いた豪華の空骸《なきがら》に向け、左右から両側になって取り付いている二階建の小さい長屋は、そのくすんだねばねばした感じから、鶫《つぐみ》の腸《わた》の塩辛のようにも思う。鼈四郎はわたりの風趣を強いて食味に翻訳して味わうとではないが、ここへ彼は来ると、裸麦の匂《にお》いや、鶫の腸にまで染《し》みてい
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