中へ駈《か》け込んだ。
 鼈四郎はその後一度もこの夫妻に会わないが、彼の生涯に取ってこの春の二回の面会は通り魔のようなものだった。折角設計して来た自分らしい楼閣を不逞《ふてい》の風が浚《さら》い取った感じが深い芸術なるものを通して何かあるとは感づかせられた。しかし今更、宗教などという黴臭《かびくさ》いと思われるものに関る気はないし、そうかといって、夫人のいったまこと[#「まこと」に傍点]とかまごころ[#「まごころ」に傍点]とかいうものを突き詰めて行くのは、安道学らしくて身慄《みぶる》いが出るほど、怖気《おぞけ》が振えた。結局、安心立命するものを捉《とら》えさえしたらいいのだろう。死の外にそれがあるか。必ず来て総てが帳消しされる死、この退《の》っ引《ぴき》ならないものへ落付きどころを置き、その上での生きてるうちが花という気持で、せいぜい好きなことに殉じて行ったなら、そこに出て来る表現に味とか芸術とかの岐《わか》れの議論は立つまい。「いざとなれば死にさえすればいいのだ」鼈四郎は幼い時分から辛《つら》い場合、不如意な場合には逃れずさまよい込み、片息をついたこの無可有の世界の観念を、青年の頭脳で確《しか》と積極的に思想に纏《まと》め上げたつもりでいる。これを裏書するように檜垣の主人の死が目前に見本を示した。
 檜垣の主人は一年ほどまえから左のうしろ頸《くび》に癌《がん》が出はじめた。始めは痛みもなかった。ちょっと悪性のものだから切らん方がよいという医師の意見と処法に従ってレントゲンなどかけていたが。癌は一時小さくなって、また前より脹《は》れを増した。とうとう痛みが来るようになった。医者も隠し切れなくなったか肺臓癌《はいぞうがん》がここに吹出したものだと宣告した。これを聞いても檜垣の主人は驚かなかった。「したいと思ったことでできなかったこともあるが、まあ人に較《くら》べたらずいぶんした方だろう」「この辺で節季の勘定を済すかな」笑いながらそういった。それから身の上の精算に取りかかった。店を人に譲り総ての貸借関係を果すと、少しばかり余裕の金が残った。「僕は賑《にぎや》かなところで死にたい」彼はそれをもって京極の裏店に引越した。美しい看護婦と、気に入りのモデルの娘を定まった死期までの間の常傭《じょうやと》いにして、そこで彼は彼の自らいう「天才の死」の営みにかかった。
 売り惜んだ彼が最後に気に入りの蒐集品《しゅうしゅうひん》で部屋の中を飾った。それでも狭い部屋の中は一ぱいで猶太人《ユダヤじん》の古物商の小店ほどはあった。
 彼はその部屋の中に彼が用いつけの天蓋附《てんがいつき》のベッドを据えた。もちろん贋《にせ》ものであろうが、彼はこれを南北戦争時分にアメリカへ流浪した西班牙《スペイン》王属出の吟遊詩人が用いたものだといっていた。柱にラテン文字で詩は彫付けてあるにはあった。彼はそこで起上って画を描き続けた。
 癌《がん》はときどき激しく痛み出した。服用の鎮痛剤ぐらいでは利かなかった。彼は医者に強請《せが》んで麻痺薬《まひやく》を注射して貰う。身体が弱るからとてなかなか注《さ》して呉《く》れない。全身、蒼黒《あおぐろ》くなりその上、痩《やせ》さらばう骨の窪《くぼ》みの皮膚にはうす紫の隈《くま》まで、漂い出した中年過ぎの男は脹《は》れ嵩張《かさば》ったうしろ頸《くび》の瘤《こぶ》に背を跼《くぐ》められ侏儒《しゅじゅ》にして餓鬼のようである。夏の最中《さなか》のこととて彼は裸でいるので、その見苦しさは覆うところなく人目を寒気立した。痛みが襲って来ると彼はその姿でベッドの上で※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》き苦しむ。全身に水を浴びたよう脂汗をにじみ出し長身の細い肢体を捩《ねじ》らし擦り合せ、甲斐《かい》ない痛みを扱《こ》き取ろうとするさまは、蛇が難産をしているところかなぞのように想像される。いくら認め合った親友でも、鼈四郎《べつしろう》は友の苦しみを看護《みと》ることは好まなかった。
 苦しみなぞというものは自分一人のものだけでさえ手に剰《あま》っている。殊に不快ということは人間の感覚に染《し》み付き易いものだ。芸術家には毒だ。避けられるだけ避けたい。そこで鼈四郎は檜垣の病主人に苦悶《くもん》が始まる、と、すーっと病居を抜け出て、茶を飲んで来るか、喋《しゃべ》って来るのであった。だが病友は許さなくなった。「なんだ意気地のない。しっかり見とれ、かく成り果てるとまた痛快なもんじゃから――」息を喘《あえ》がせながらいった。
 鼈四郎は、手を痛いほど握り締め、自分も全身に脂汗をにじみ出させて、見ることに堪えていた。死は惧《おそ》ろしくはないが、死へ行くまでの過程に嫌なものがあるという考えがちらりと念頭を掠《かす》めて過ぎた。だがそういう
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