うになって悲憤慷慨《ひふんこうがい》することもある。そんな不平の反動も混って蛍雪の喰《た》べものへの執し方が激しくなった。
 蛍雪が姉娘のお千代を世帯染《しょたいじ》みた主婦役にいためつけながら、妹のお絹に当世の服装《みなり》の贅《ぜい》を尽させ、芝の高台のフランスカトリックの女学校へ通わせてほくほくしているのも、性質からしてお絹の方が気に入ってるには違いないが、やはり、物事を極端に偏らせる彼の凝り性の性癖から来るものらしかった。彼は鼈四郎が来るまえから鼈《すっぽん》の料理に凝り出していたのだが、鼈鍋《すっぽんなべ》はどうやらできたが、鼈|蒸焼《むしやき》は遣《や》り損じてばかりいるほどの手並だった。鼈四郎は白木綿で包んだ鼈を生埋めにする熱灰を拵《こしら》える薪の選み方、熱灰の加減、蒸し焼き上る時間など、慣れた調子で苦もなくしてみせ、蛍雪は出来上ったものを毟《むし》って生醤油《きじょうゆ》で食べると近来にない美味であった。それまで鼈四郎は京都で呼び付けられていた与四郎の名を通していたのだったが、以後、蛍雪は与四郎を相手させることに凝り出し、手前勝手に鼈四郎と呼名をつけてしまった。娘の姉妹もそれについて呼び慣れてしまう。独占慾の強い蛍雪は、鼈四郎夫妻に住宅を与え僅《わずか》に食べられるだけの扶養を与えて他家への職仕を断らせた。
 鼈四郎は、蛍雪館へ足を踏み入れ妹娘のお絹を一目見たときから「おやっ」と思った。これくらい自分とは縁の遠い世界に住む娘で、そしてまたこれくらい自分の好みに合う娘はなかった。いつも夢見ているあどけない恰好《かこう》をしていて、そしてかすかに皮肉な苦味を帯びている。青ものの走りが純粋|無垢《むく》でありながら、何か※[#「てへん+宛」、第3水準1−84−80]《も》ぎ取られた将来の生い立ちを不可解の中に蔵している一つの権威、それにも似た感じがあった。
 お絹は人出入|稀《ま》れな家庭に入って来た青年の鼈四郎を珍しがりもせず、ときどきは傍にいても、忘れたかのように、うち捨てて置いたまま、ひとりで夢見たり、遊んだりした。母無くして権高な父の手だけで育ったためか、そのとき中性型で高貴性のある寂しさがにじんだ。鼈四郎が美貌《びぼう》であることは最初から頓着《とんちゃく》しないようだった。姉娘のお千代の方が顔を赭《あから》めたり戸惑う様子を見せた。
 鼈四郎
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