は絹に向うと、われならなくに一層|肩肘《かたひじ》を張り、高飛車に出るのをどうしようもない。その心底を見透すもののようにまたそうでもないように、ふだん伏眼勝ちの煙れる瞳《ひとみ》をゆっくり上げて、この娘はまともに青年を瞠入《みい》るのであった。すると鼈四郎は段違いという感じがして身の卑しさに心が竦《すく》んだ。
 だが、鼈四郎は、蛍雪の相手をする傍ら、姉妹娘に料理法を教えることをいい付かり、お絹の手を取るようにして、仕方を授ける間柄になって来ると、鼈四郎は心易いものを覚えた。この娘も料理の業《わざ》は普通の娘同様、あどけなく手緩かった。それは着物の綻《ほころ》びから不用意に現している白い肌のように愛らしくもあった。彼は娘の間の抜けたところを悠々と味いながら叱《しか》りもし罵《ののし》りもできた。お絹はこういうときは負けていず、必ず遣《や》り返したが、この青年の持つ秀でた技倆《ぎりょう》には、何か関心を持って来たようだった。鼈四郎は調子づき、自己吹聴がてら彼の芸術論など喋《しゃべ》った。遠慮は除れた。しかしただそれだけのものであった。この娘こそ虫が好く虫が好くと思いながら、鼈四郎は、逸子との変哲もない家庭生活に思わず月日を過し子供も生れてしまった。もう一人檜垣の家の後嗣《あとつぎ》に貰える筈《はず》の子供が生れるのを伯母さんは首を長くして待受けている。


 今宵《こよい》、霧の夜の、闇《やみ》の深さ、粘りこさにそそられて鼈四郎は珍らしく、自分の過ぎ来た生涯を味い返してみた。死をもって万事清算がつく絶対のものと思い定め、それを落付きどころとして、その無からこの生を顧り、須臾《しゅゆ》の生なにほどの事やあると軽く思い做《な》されるこころから、また死を眺めやってこれも軽いものに思い取る。幼児の体験から出発して、今日までに思想にまで纏《まと》め上げたつもりの考え。
 しかる上は生きてるうちが花と定めて、できることなら仕度《した》い三昧《ざんまい》を続けて暮そうという考えは、だんだんあやしくなって来た。何一つ自分の思うこととてできたものはない。たった一つこれだけは漁《あさ》り続けて来たつもりの食味すら、それに纏《まつわ》る世俗の諸事情の方が多くて自分を意外の方向へ押流し、使い廻《まわ》す挺《てこ》にでもなっているような気がする。
 霰《あられ》が降る。深くも、粘り濃い闇の中に
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