て彼には、いわゆる偉い人が好んだという食品はぜひ自分も一度は味ってみようという念願があった。それは一方彼の英雄主義の現れであり、一方偉い人の探索でもあった。その人が好くという食品を味ってみて、その人がどんな人であるかを溯《さかのぼ》り知り当てることは、もっとも正直で容易い人物鑑識法のように彼には思えた。
 鍋の煮出し汁は、兼《かね》て貯えの彼特製の野菜のエキスで調味されてあった。大根は初冬に入り肥えかかっていた。七つ八つの泡によって鍋底から浮上り漂う銀杏形《いちょうがた》の片《き》れの中で、ほど良しと思うものを彼は箸《はし》で選み上げた。手塩皿の溜醤油《たまり》に片れの一角を浸し熱さを吹いては喰べた。
 生《き》で純で、自然の質そのものだけの持つ謙遜《けんそん》な滋味が片れを口の中へ入れる度びに脆《もろ》く柔く溶けた。大まかな菜根の匂いがする。それは案外、甘《あま》いものであった。
「成程なア」
 彼は、感歎《かんたん》して独り言をいった。
 彼は盛に煮上って来るのを、今度は立て続けに吹きもて食べた。それは食べるというよりは、吸い取るという恰好《かっこう》に近かった。土鼠が食い耽《ふけ》る飽くなき態があった。
 その間、たまに彼は箸を、大根卸しの壺に差出したが、ついに煮大根の鉢にはつけなかった。
 食い終って一通り堪能《たんのう》したと見え、彼は焜炉の口を閉じはじめて霰の庭を眺め遣《や》った。
 あまり酒に強くない彼は胡座の左の膝《ひざ》に左の肘を突立て、もう上体をふらふらさしていた。※[#「口+愛」、第3水準1−15−23]気をしきりに吐くのは、もはや景気附けではなく、胃拡張の胃壁の遅緩が、飲食したものの刺激に遭いうねり戻す本もののものだった。ときどき甘苦い粘塊が口中へ噎《む》せ上って来る。その中には大根の片れの生噛《なまが》みのものも混っている。彼は食後には必ず、この※[#「口+愛」、第3水準1−15−23]気をやり、そして、人前をも憚《はばか》らず反芻《はんすう》する癖があった。壁越しに聞いている逸子は「また、始めた」と浅間しく思う。家庭の食後にそれをする父を見慣れて、こどもの篤が真似《まね》て仕方が無いからであった。
 ※[#「口+愛」、第3水準1−15−23]気は不快だったが、その不快を克服するため、なおもビールを飲み煙草《たばこ》を喫《す》うところに、身
前へ 次へ
全43ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング