とであつた。土地の人たちは直助が過《あやま》つて河へ墜ちて死んだと信じ切つてゐるやうだ。かの女もさう信じた。けれども、かの女は二十何年後の昨日、ふと直助が返した希臘神話の本の頁《ページ》の間から、思ひがけなく彼が書いた詩のつもりらしい、埃《ほこり》で赤腐れた紙片を発見した。直助が自分で河へ身を投げて死んだのではないかといふ疑念を急にかの女は起したのである。

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お嬢さま一度渡れば
二度とは渡り返して来ない橋。
私も一度お送り申したら
二度とは訪ねて行かない、橋
それを、私はいま架けてゐる。
いつそ大水でもと、私はおもふ
橋が流れて呉《く》れゝばいゝに
だが、河の神さまはいふ
橋を流すより、身を流せ。
なんだ、なんだ。
川は墓なのか。
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 その夜かの女は何年か振りで川の夢を見る。
 一面の大雪原である。多少の起伏はある。降雪のやんだあとの曇天で、しかもまたその後に来る降雪を孕《はら》んだ曇天である。一面に拡く重い地上の大雪原の面積と同じ広さの曇天の面積である。曇天の面にむら[#「むら」に傍点]がある。地上の大雪原の面にも鉛色めいたかげり[#「かげり」に傍点]と漂雪白の一面とが大きいスケールのむら[#「むら」に傍点]をなしてゐる。
 ――一面に広い大雪原である。真只中《まっただなか》を細い一筋の川――だが近よつて見ると細くはない。大河だ。大雪原の大面積が大河を細く劃《くぎ》つて見せてゐたのである。いつか私はその岸をとぼ/\と歩いてゐた。男の猟人《かりゅうど》の姿に私はなつてゐた。葦《あし》がほんのわづかその雪原にたゞそれだけの植物のかすかな影をかすかに立ててちらほらと生えてゐた。その葦を折りながら、私は鉄砲を背負つて歩いてゐた――だが、その猟人の姿はやつぱり私でなくつて直助だつたのだ。私の姿はその時どういふ恰好《かっこう》で大雪原のどの辺にゐたか知れないのだ。私にはだん/\私の姿や位置は意識されず、猟人姿の直助がのつしのつし[#「のつしのつし」に傍点]と、前こごみに歩いてゐるばかりしか眼にとまらなくなつた――が、またも私の眼に見え出したものがある。直助の歩みと同列同速力で、川のやゝ岸近に筏《いかだ》が流れてゐたのだ。筏は秩父の山奥から流れて来たものだと私は意識した。きれいに皮をはいで正確の長方形に截《き》つた楓《かえで》
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