馥郁《ふくいく》としてわたしの骨に匂ひ出した。わたしは生涯働かなかつたといふことを思ひ出に漂ふ空無《リヤン》の海に紫の海月《くらげ》となつて泳ぎ出るのだ。完成された階級にただ一つ残つた必至の垣を今こそ躍《おど》り越えるのだ。日よ、月よ、森よ、化粧の女よ。さらば――わけて、アンナと巴里にはよろしく――。」
 つひに張り詰めたボニ侯爵の声はのんびり日常生活と番《つが》ひ始めた巴里の昼まへの時間に対して調和が取れなかつた。けれどもその声があまりに真剣なので自殺でもするのかと思へばさうはしなかつた。彼は朝の気分の宜《よ》い時に毎日かうして遺言の練習をするのであつた。彼は犬小屋できゆう/\鳴いてゐるグレー・ハウンドを引出してちよつとブラシュをかけ、それからそれを連れて牛乳を買ひに街へ出た。彼の足は蓮根《れんこん》のやうに細つてゐるがまだ歩調はしつかりして居る。庭門をくぐるとき彼は思ひ出したやうにまた云つた。
「フランス貴族といつても本物と擬《まが》ひとあることを弁《わきま》へて貰《もら》ひたいものだ。一つはわれ/\のやうな由緒ある正銘の貴族《エミグレ》だが、一つはナポレオンがむやみに製造した田舎
前へ 次へ
全14ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング