まく》が無いらしい。それでよくわたしの血は他人の血の流れと反対になる。ロスタンは言つた『時代を間違へるな。』わたしは云はう『時代を間違へよう。』ロスタンは云つた『ばかは止せ。』わたしはいはう『馬鹿《ばか》こそせよ。』
彼等が決闘を未遂に終らせたことはとりも直さずわたしに決闘を仕遂《しと》げさすことであつた。黒ん坊との決闘は貴族の恥辱だらう。だが彼を措《お》いて誰が今日決闘の相手になんぞなつてくれよう。この期をはづしてはまたとわたしの生涯にあの美しい招待の言葉を生かす機があらうか。
ジャンチリイの崩れた城壁の蔭でわたしは黒ん坊と向き合つた。彼は名のある力業師《アクロバット》だつた。彼はゴムのやうな肉体を抱へてゐた。それによつて巴里の貴婦人達は歯を楽しまされ始めてゐた。
歯による恋愛――彼はそれを西南の竜舌蘭《りゅうぜつらん》の蔭から巴里《パリ》へ移入した。
青い血と黒い血とは剣を持つて睨《にら》み合つた。その頃、青い血を駆逐する社会上の敵は黄色の血の流れる|成上り者《パルヴニウ》だつた。だが巴里の客間《サロン》で青い血の人気を奪ひつゝあるものはこの黒い血の連中だつた。わたしは彼を同族の公敵と認めた。わたしの剣に力が籠《こも》る。
いくら剣法を知らない力業師であるにしてもああもたやすく彼がわたしに負けるとは思はなかつた。太刀《たち》の二当《ふたあて》、三当《みあて》もしないうちに彼の黒い横|頬《ほお》が赤く笑つた。彼は剣を投げ出して『感謝に堪へませぬ。』と云つた。
秘密は直ぐに判つた。彼はわたしとの決闘を看板にしてヨーロッパを興行し廻るのだつた。辻のビラには『ボニ侯爵』の名前が、彼の名前より大きく刷られてあつた。
わたしは負けた。やつぱり時代に負けたのだつた。」
サン・ジ※[#「小書き片仮名ヱ」、209−4]ルマン・デ・プレの鐘が鳴つた。巴里の寺のなかでも古いこの寺の鐘は、水へ砂金を流し込むやうに大気の底を底をと慕つて響いた。響くよりすぐ染みついた。淡雪《あわゆき》は水になつた。窓々の扉が開く。頬張《ほおば》つて朝のパンを食ふ平凡な午前九時が来て太陽はレデー・メードになる。侯爵は立上つて一九三一年の冬に身震ひした。
「まだアンナと一緒にゐた時なのでこの事件からしばらく官憲を憚《はばか》つてアンナと亜米利加《アメリカ》に渡つた。すぐ飽きた。侯爵を珍しがり裏から表からしつこく見ようとするこの国の上流社会はうるさいばかりでなくわたしの心の皮膚を荒した。わたしは心の皮膚を大事にする。前侯爵夫人の名とヴァン・ドンゲンが描いたわたしの肖像をアンナに残してわたしはとう/\亜米利加から巴里へ帰つた。久しぶりで巴里へ帰り着いたとき例のめつたにこぼれないわたしの涙が出た。わたしの滅びの最後を待ちうけてゐてくれる所は巴里よりほかに無い筈《はず》だつた。アンナとはポトマック河べりの散歩の途中で別れたのだ。
『さやうなら、ではその傘《かさ》を頂戴《ちょうだい》。』
これがアンナが訣《わか》れる最後に私に云つた言葉だつた。わたしは脇の下に挟んだ彼女の七色織の日傘の畳目にキッスして彼女に返した。彼女は威勢よくその日傘を拡げると手を愛想に振りながら待たしてあつたモーター・ボートに乗つた。浪《なみ》が揺れた。それきりわたしは彼女に会はない。噂《うわさ》によるとちかごろ彼女は欧羅巴《ヨーロッパ》の小国のプランセスの位置を狙《ねら》つてゐるさうだ。これがこのごろ金のある亜米利加女の発達した慾望ださうだ。
わたしは芸術を愛した。ずゐぶん芸術家を保護した。しかし、いくら世辞ですすめられても素人《しろうと》のくせに俳優を指揮したり俳優の本読みするやうな猪口才《ちょこざい》な真似《まね》は決してしなかつた。それといふのもわたしに一つの自信があつたからだ。わたしはさういふことを勧める人にかう答へた。『わたしも立派な芸術を持つてゐますよ。とてもあなた方にお出来になりますまい。それは消費の芸術といふものです。』するとその人は余儀なささうにうなづくのであつた。しかし、なほうなづきかねた人にはわたしはかう説明した。『わたしは金のある十一年間に一さい偶然の力を藉《か》りずにほぼ見込みどほりわたしの運命を表現しました。たぶんわたしはリアリズムの大家でせう。酔はずに零落の途《みち》を見詰めて来た勇気の点に於てね。』ここまで言ひ切れば大概の人は返す言葉が無かつた。
事実、わたしは滅びる目的に成功してこの古い由緒ある家も、愛する広い庭も完全に人手に渡つてゐる。わたしに残つてゐるものはグレー・ハウンドの犬一|疋《ぴき》と紋章旗だけだ。わたしの肉体とても婦人の病気以外には殆《ほとん》どあらゆる病の餌食《えじき》として与へてしまつたと云つても宜《よ》い。わたしの待つた消滅の薫りが
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