岡本かの子

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)扉《ドア》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)腰|嵌《は》め

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「小書き片仮名ヱ」、203−14]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)こそ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
−−

 遅い朝日が白み初めた。
 木琴入りの時計が午前七時を打つ。ヴァルコンの扉《ドア》が開く。
「フランスの貴族でアメリカ女の金持と政策結婚をした始めての人間はわしだつたのさ。」
 さう云ひながらボニ侯爵は軽騎兵の服を型取つた古い部屋着のまま中庭の雪へ下りて行つた。雪は深かつた。もう止んでゐた。
「それからアメリカとフランスとの間にそれが流行となつて活動女優のグロリア・スワンソンまでがラ・ファレイズ侯爵と結婚するやうになつたのさ。」
 侯爵はそこで体を屈《かが》めた。指で雪を掬《すく》ひ上げてぢつと見詰めた。それから手首を外側へしなはせると雪片は払ふまでもなく落ちた。
「実際フランスの貴族といふものは世界中で一番完成した人間だらう。その証拠にはあらゆる理解と才能を備へてゐてたつた一つ働くことが出来ないことだ。歴史を見ても判る。その階級として最高の完成に達した人間はみなこの通りだ。」
 そこにロココ風の隠れ家式の小亭がある。侯爵は枯蔦《かれつた》をひいて廂《ひさし》の雪を落した。家のなかに寝てゐた薄闇が匂ひもののやうに大気へ潤染《にじ》んで散る。腰|嵌《は》めの葡萄蔓《ぶどうづる》の金唐草に朝の光がまぶしく[#「まぶしく」に傍点]射す。侯爵は座板に腰掛けずにそのまま入口の柱に凭《もた》れた。背中が羅紗《ラシャ》地を距《へだ》ててニンフの浮彫《うきぼり》にさはる。
「その人間は美しく滅びるよりほかあるまい。完成を味《あじわ》ひつつ消去《きえさ》るよりほかはあるまい。Le monde se meurt. Le monde est mort.(地球は自殺する。地球は死である。)まつたくわたし達にはうつてつけの言葉だ。だが、世間にはまた働く貴族といふ者があるにはある。五ヶ国語を話してトーマス・クックの案内人を勤める伊太利《イタリー》男爵もあれば刺繍《ししゅう》とピアノを教へる嫁入学校を拵《こしら》へて一儲《ひともう》けする波蘭《ポーランド》伯爵もある。しかし、それは地球の自殺の仕損じと同じものだ。結局灰滅は時期の問題だ。」
 侯爵はここで少し笑つた。フォウブルグ・サン・ジ※[#「小書き片仮名ヱ」、203−14]ルマンの丈《たけ》の高い屋敷町に取籠《とりこ》められたこの庭でたつた一人がどんなに笑ふとしたところで周囲の朝寝を妨げはしない。まして侯爵の笑ひは淡々として水に落ちる雫《しずく》のやうだ。波紋もさう遠くへ送る力は無い。
「そこで金だ。滅びる支度の金だ。いのちを享楽のしめ木にかけ、いのちを消費の火に燃す支度の金だ。アンナは金持だつた。瑪瑙《めのう》の万年筆で小切手を落書のやうに書いた。アンナのほかのことには心を惹《ひ》かれなかつたが小切手を書く速さに心を惹かれた。結婚期限は五年ではいかゞ。『侯爵夫人』をあなたの帽子の鳥毛に使つてみてはいかが。この申出が果してフランス貴族の恥辱であらうか。働くことはフランス貴族の恥辱だが貸すことは名誉だ。わたしはわたしのタイトルを五年期限で賃貸することを申出た。
 それはフォンテンブローの森へ団体で遠乗りした帰りだつた。二人が仲間から遅れて別荘町を外れかかつた時だつた。道端の垣にリラの花が枝垂《しだ》れてゐた。わたしの申出を聴いた時の彼女の返事を今でも覚えてゐる。彼女は右手を後鞍に廻してまともにわたしを振り向いて云つた。『承知よ。そしてしあはせにもあなたは様子もよし――』
 わたしの滅びの支度は出来た。わたしの祖先伝来であつてそしてわたし一代で使ひつくすべきあらゆる才能とあらゆる教養とに点火する時が来た。わたしは躊躇《ちゅうちょ》しなかつた。ボア・ド・ブウロニュ街の薔薇《ばら》いろの大理石の館、人知れぬロアル河べりの蘆《あし》の中の城《シャトウ》、ニースの浪《なみ》に繋《つな》ぐ快走船《ヨット》、縞《しま》の外套《がいとう》を着た競馬の馬、その他の数々の芸術品を彼女とわたしとはいのちを消費する享楽の道づれとして用意した。人はわたしのこれ等《ら》の準備を見て或ひは月並の贅沢《ぜいたく》であると笑ふかも知れない。だが月並の表面を行かないでこそ/\贅沢の裏へ抜けるといふことはわれ/\の執《と》らないところである。いはゆる粋人《すいじん》がすることであ
次へ
全4ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング