馥郁《ふくいく》としてわたしの骨に匂ひ出した。わたしは生涯働かなかつたといふことを思ひ出に漂ふ空無《リヤン》の海に紫の海月《くらげ》となつて泳ぎ出るのだ。完成された階級にただ一つ残つた必至の垣を今こそ躍《おど》り越えるのだ。日よ、月よ、森よ、化粧の女よ。さらば――わけて、アンナと巴里にはよろしく――。」
つひに張り詰めたボニ侯爵の声はのんびり日常生活と番《つが》ひ始めた巴里の昼まへの時間に対して調和が取れなかつた。けれどもその声があまりに真剣なので自殺でもするのかと思へばさうはしなかつた。彼は朝の気分の宜《よ》い時に毎日かうして遺言の練習をするのであつた。彼は犬小屋できゆう/\鳴いてゐるグレー・ハウンドを引出してちよつとブラシュをかけ、それからそれを連れて牛乳を買ひに街へ出た。彼の足は蓮根《れんこん》のやうに細つてゐるがまだ歩調はしつかりして居る。庭門をくぐるとき彼は思ひ出したやうにまた云つた。
「フランス貴族といつても本物と擬《まが》ひとあることを弁《わきま》へて貰《もら》ひたいものだ。一つはわれ/\のやうな由緒ある正銘の貴族《エミグレ》だが、一つはナポレオンがむやみに製造した田舎《いなか》貴族だ。こいつらの先祖は百姓か職人だからその子孫も握手して見れば判る。掌《てのひら》に胼胝《たこ》の痕《あと》が遺《のこ》つてゐるさ。」
底本:「日本幻想文学集成10 岡本かの子」国書刊行会
1992(平成4)年1月23日初版第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集」冬樹社
1974(昭和49)年発行
初出:「改造」
1932(昭和7)年6月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※ルビを新仮名遣いとする扱いは、底本通りにしました。
入力:門田裕志
校正:湯地光弘
2005年2月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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