だ見るものとして眼に柔いからだ。」
小|鵯《ひよどり》も飛んで行つて仕舞《しま》つた。日のあたたかみで淡雪《あわゆき》の上《うわ》つらがつぶやく音を立てながら溶け始めた。侯爵の背中にニンフの浮彫《うきぼり》が喰ひ込み過ぎた。彼はそこではじめて腰板に腰を下す。
「俗謡作家のピヱール・ヴ※[#「小書き片仮名ヱ」、206−13]ベルが怒つたことがあつて劇作家のモウリス・ロスタンに決闘を申込んだ。話すほどのことでも無いつまらぬ原因でだ。しかし、ロスタンは振向きもしなかつた。――時代を間違へるな。馬鹿《ばか》はよせ――この返事でたちまち決闘は流れて仕舞つた。おそらく巴里《パリ》で決闘といふものが本気に口にされたのはこれが最後になるだらうといふ評判だつた。ところがわたしはこの最後にもう一つの最後を附け加へた。しかも実行でだ。
『ピストルか、剣か、二つに一つ。そして、コーヒーは一つ。』
なんといふ趣《おもむき》のある招待《アンヴィタション》の言葉だらう。そして決闘以外にこの言葉を生かして使ふ途《みち》は無い。フランスに於ては言葉が先に生れて事実はあとを追馳《おいか》けることが往々ある。ちやうど作者が台詞《せりふ》を先に思ひついてそれを言はせるために人間をあとからこしらへるやうなものだ。それほどフランスの言葉は処女受胎性を持つてゐる。事象の夫の世話を藉《か》りずにどし/\表現の世継ぎを生むからである。この説明と関係があるかどうか知らんがわたしはかね/″\わたしの国の決闘の言葉の美しさに魅入《みい》られてゐた。一度はぜひ使つて見たいと思つてゐた。この言葉に二重の軽蔑《けいべつ》の美しさがあつた。一つは敵の勇気に対して、一つは自分のいのちに対して――。そしてこの軽蔑の美しさほどわれ/\滅びる青い血の人種の好みに適《かな》ふものは無い。またこの言葉に軽蔑の礼儀を持つてゐる。
さいはひそこに争ひが出来た。事件は貴婦人《ダーム》に就いてだ。今になつて考へて見るとわたしの前にヴ※[#「小書き片仮名ヱ」、206−11]ベルとロスタンの事件が無かつたらわたしはそれを決行まで運ばせなかつたかも知れない。なぜなら相手は黒ん坊だつたからだ。だが前の二人の事件は次のやうな理由でわたしを動かした。ロスタンの『時代を間違へるな、ばかは止せ。』といふ言葉がわたしを動かした。一たいわたしの血管には弁膜《べん
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