る。粋人にはなりたくないものだ。粋人といふものは贅沢の情夫ではあつても贅沢の正妻ではあり得ない。彼等は贅沢と正式に結婚する費用と時間と無駄を惜しむ。われわれは惜《おし》まない。月並そのものがいかにわれわれの趣味に対して無益であり徒労であると十分承知しながら、黙つてそれをやる。月並は遊びに奉仕する人の一度は払ふべき税だ。基礎教育だ。われわれは遊びに対して速成科を望まない。速成科といふものは働いて急いで金を儲《もう》けようとする思想の人間が起した後の教育法だ。たぶんあの産業改革が発明した殺風景の中の一つだらう。」
 ふはりと隣家の破風《はふ》を掠《かす》めて鴎《かもめ》が一つ浮いて出た。青み初めた空から太陽がわづかに赤い鱗《うろこ》を振り落した。まじめな朝が若い暁《ごぜん》と交代する。
 セーヌの鴎はやつぱり身体の中心を河へ置いて来たといふ格好で戻つて行くのをすねるやうに庭の池が睨《にら》み上げる。石楠花《しゃくなげ》の雪が一ばんさきに雫《しずく》になりかけた。
 侯爵は鴎の影がなくなつたのでまた安心して樺《かば》色の実に嘴《くちばし》を入れ出した小|鵯《ひよどり》に眼をやりながら言葉を続ける。
「五年間はアンナの金でアンナと一緒に、そして次の六年間は訣《わか》れた後のわたしのためにアンナがわたしにくれた金で、わたしはわたしを遺憾なく燃した。惚《ほ》れるべき女優には花束を持つて惚れに行つた。騙《だま》さるべき踊り子には指環を抜くがままに抜かした。シャンパンは葡萄《ぶどう》畑を買ひ取つて自園の酒をこしらへた。スヰスから生きた山鱒《マウンテントラウト》を運ばして客に眼の前で料理して馳走した。一度変つた象棋《チェス》をさしたことがある。それは象棋盤の上へ駒の代りに女を並べさしたことだ。もちろん駒が大きいから象棋盤も特別|誂《あつら》へだ。わたしが首尾よく敵陣に攻め入つた時に、女達は歩調を取りながら勇んで奏楽に合せてマルセエズを唄《うた》つてくれた。わたしは涙がこぼれた。わたしの生活にはめつたにこぼさない涙だ。何の涙だらうか。わたしの涙は人が泣きさうな時にはめつたにこぼれないで何でも無いやうな時に不意にこぼれて来る。その時の駒の女の一人が今ブヱイの通りの塗物屋の女房に片づいて黒くなつて働いてゐる。ここからは近いのでわたしは何ごころなくそれを見に行く。栄華に対する未練では無い、た
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