生から」といって雛妓を逸作の方へ押しやった。
十時の鐘は少し冴《さ》え返って聞えた。逸作は懐手をして雛妓に肩を叩《たた》いて貰いながら眼を眠そうにうっとりしている。わたくしはそれを眺めながら、ついに例の癖の、息子の一郎に早くこのくらいの年頃の娘を貰って置いて、嫁に仕込んでみたら――そして、その娘が親孝行をして父親の肩を叩く図はおよそこんなものではあるまいかなぞ勝手な想像を働かせていた。
わたくしたちが帰りかけると、雛妓は店先の敷台まで女中に混って送って出て、そこで、朧夜《おぼろよ》になった月の夜影を踏んで遠ざかり行くわたくしたちの影に向って呼んだ。
「奥さまのかの子さーん」
わたくしも何だか懐かしく呼んだ。
「お雛妓さんのかの子さーん」
松影に声は距《へだ》てられながらもまだ、
「奥さまのかの子さーん」
「お雛妓さんのかの子さーん」
ついに、
「かの子さーん」
「かの子さーん」
わたくしは嘗《かつ》て自分の名を他人にして呼んだ経験はない。いま呼んでみて、それは思いの外なつかしいものである。身のうちが竦《すく》むような恥かしさと同時に、何だか自分の中に今まで隠れていた本性のよ
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