らでもじかに書いて下さいましょうにと申しましたら、いや、俺はあの娘には何にも言えない。あの娘がひとりであれだけになったのだから、この家のことは何一つ頼めない。ただ、蔭で有難いと思っているだけで充分だ」と洩《もら》したそうである。
こんな事柄さえ次々に想《おも》い出されて来た。食品を運んで来る女中は、わたくしたち中年前後の夫妻が何か内輪揉《うちわも》めで愁歎場《しゅうたんば》を演じてるとでも思ったのか、なるべくわたくしに眼をつけないようにして襖《ふすま》からの出入りの足を急いだ。
七時のときの鐘よりは八時の鐘は、わたくしの耳に慣れて来た。いまは耳に手を当てるまでもなく静に聞き過された。一枚開けた障子の隙《すき》から、漆のような黒い水に、枯れ蓮《はす》の茎や葉が一層くろぐろと水面に伏さっているのが窺《のぞ》かれる。その起伏のさまは、伊香保の湯宿の高い裏欄干《うららんかん》から上《かみ》つ毛野《けの》、下《しも》つ毛野《けの》に蟠《わだかま》る連山の頂上を眺め渡すようだった。そのはろばろと眺め渡して行く起伏の末になると、枯蓮の枯葉は少くなり、ただ撓《たわ》み曲った茎だけが、水上の形さながらに水面に落す影もろとも、いろいろに歪《ゆが》みを見せたOの字の姿を池に並べ重ねている。わたくしはむかし逸作がこの料亭での会食以前、美術学校の生徒時代に、彼の写生帳を見ると全頁《ぜんページ》悉《ことごと》くこの歪んだOの字の蓮の枯茎しか写生してないのを発見した。そしてわたくしは「あんたは懶《なま》けものなの」と訊《き》いた。すると逸作は答えた。「違う。僕は人生が寂しくって、こんな楽書《らくがき》みたいなものの外、スケッチする張合いもないのです」わたくしは訊《たず》ね返した「おとうさんはどうしてらっしゃるの。おかあさんはどうしてらっしゃるの。そして、ごきょうだいは」逸作は答えた。「それを訊かないで下さい。よし、それ等があるとしたところで僕はやっぱり孤児の気持です」逸作はその孤児なる理由は話さなかったが、わたくしにはどうやら感じられた。「可哀《かわい》そうな青年」
何に愕《おどろ》いてか、屋後の池の方で水鳥が、くゎ、くゎ、と鳴き叫び、やがて三四羽続けて水を蹴《け》って立つ音が聞える。
わたくしは淋しい気持に両袖《りょうそで》で胸を抱いて言った。
「今度こそ二人とも事実正銘の孤児になりましたのね」
「うん、なった。――だが」
ここでちょっと逸作は眼を俯《うつむ》けていたが何気なく言った。
「一郎だけは、二人がいなくなった後も孤児の気持にはさしたくないものだ」
わたくしは再び眼を上げて、蓮《はす》の枯茎のOの字の並べ重なるのを見る。怱忙《そうぼう》として脳裡《のうり》に過ぎる十八年の歳月。
ふと気がついてみると、わたくしの眼に蓮の枯茎が眼について来たのには理由があった。
夜はやや更《ふ》けて、天地は黒い塀を四壁に立てたように静まり閉すにつれ、真向うの池の端の町並の肉色で涼しい窓々の灯、軒や屋根に色の光りのレースを冠《かぶ》せたようなネオンの明りはだんだん華やいで来た。町並で山下通りの電車線路の近くは、表町通りの熾烈《しれつ》なネオンの光りを受け、まるで火事の余焔《よえん》を浴びているようである。池の縁を取りまいて若い並木の列がある。町並の家総体が一つの発光体となった今は、それから射出する夜の灯で、これ等の並木は影くろぐろと生ける人の列のようにも見える。並木に浸み剰《あま》った灯の光は池の水にも明るく届いて、さてはその照り返しで枯蓮の茎のO字をわたくしの眼にいちじるしく映じさすのであった。更に思い廻《めぐ》らされて来るこれから迎えようとする幾歳かの茫漠《ぼうばく》とした人世。
水鳥はもう寝たのか、障子の硝子戸《ガラスど》を透してみると上野の森は深夜のようである。それに引代え廊下を歩く女中の足音は忙しくなり、二つ三つ隔てた座敷から絃歌《げんか》の音も聞え出した。料亭持前の不夜の営みはこれから浮き上りかけて来たようである。そのとき遠くの女中の声がして、
「かの子さーん」
と呼ぶのが聞えた。それはわたくしと同名の呼名である。わたくしと逸作は、眼を円くして見合い、含み笑いを唇できっと引き結んだ。
もう一度、
「かの子さーん」と聞えた。すると、襖《ふすま》の外の廊下で案外近く、わざとあどけなく気取らせた小娘の声で、
「はーい。ただ今」
そして、これは本当のあどけない足取りでぱたぱたと駆けて行くのが聞えた。
「お雛妓《しゃく》だ」
「そうねえ」
(筆者はここで、ちょっとお断りして置かねばならない事柄がある。ここに現れ出たこの物語の主人公、雛妓かの子は、この物語の副主人公わたくしという人物とも、また、物語を書く筆者とも同名である。このことは作品に於け
前へ
次へ
全16ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング