る芸術上の議論に疑惑を惹《ひ》き起し易い。また、なにか為めにするところがあるようにも取られ易い。これを思うと筆はちょっと臆《おく》する。それで筆者は幾度か考え直すに努めて見たものの、これを更《か》えてしまっては、全然この物語を書く情熱を失ってしまうのである。そこでいつもながらの捨身の勇気を奮い気の弱い筆を叱《しか》って進めることにした。よしやわざくれ、作品のモチーフとなる切情に殉ぜんかなと)
からし菜、細根大根、花菜漬、こういった旬《しゅん》の青味のお漬物でご飯を勧められても、わたくしは、ほんの一口しか食べられなかった。
電気ストーヴをつけて部屋を暖かくしながら、障子をもう一枚開け拡《ひろ》げて、月の出に色も潤《うる》みだしたらしい不忍《しのばず》の夜の春色でわたくしの傷心を引立たせようとした逸作も遂《つい》に匙《さじ》を投げたかのように言った。
「それじゃ葬式の日まで、君の身体が持つか持たんか判らないぜ」
逸作はしばらく術無《すべな》げに黙っていたが、ふと妙案のように、
「どうだ一つ、さっきのお雛妓の、あの若いかの子さんでも聘《よ》んで元気づけに君に見せてやるか」
逸作は人生の寂しさを努めて紛らすために何か飄逸《ひょういつ》な筆つきを使う画家であった。都会児の洗練透徹した機智は生れ付きのものだった。だが彼は邪道に陥る惧《おそ》れがあるとて、ふだんは滅多にそれを使わなかった。ごく稀《まれ》に彼はそれを画にも処世上にも使った。意表に出るその働きは水際立って効を奏した。
わたくしはそれを知っている故に、彼の思い付きに充分な信頼を置くものの、お雛妓を聘ぶなどということは何ぼ何でも今夜の場合にはじゃらけた気分に感じられた。それに今までそんなことを嘗《かつ》てしたわたくしたちでもなかった。
「いけません。いけません。それはあんまりですよ」
わたくしの声は少し怒気を帯びていた。
「ばか。おまえは、まだ、あのおやじのこころをほんとによく知っていないのだ」
そこで逸作は、七十二になる父が髪黒々としつつ、そしてなお生に執したことから説いて、
「おやじは古《ふ》り行く家に、必死と若さを欲していたのだ。あれほど愛していたおまえのお母さんが歿《な》くなって間もなく、いくら人に勧められたからとて、聖人と渾名《あだな》されるほどの人間が直《す》ぐ若い後妻を貰ったなぞはその証拠だ」と言った。
父はまた、長男でわたくしの兄に当る文学好きの青年が大学を出ると間もなく夭死《ようし》した。その墓を見事に作って、学位の文学士という文字を墓面に大きく刻み込み、毎日毎日名残り惜しそうにそれを眺めに行った。
「何百年の間、武蔵相模の土に亙《わた》って逞《たくま》しい埋蔵力を持ちながら、葡《は》い松のように横に延びただけの旧家の一族に付いている家霊が、何一つ世間へ表現されないのをおやじは心魂に徹して歎《なげ》いていたのだ。おやじの遺憾はただそれ許《ばか》りなのだ。おやじ自身はそれをはっきり意識に上《のぼ》す力はなかったかも知れない。けれど晩年にはやはりそれに促されて、何となくおまえ一人の素質を便りにしていたのだ。この謎《なぞ》はおやじの晩年を見るときそれはあまりに明かである。しかし望むものを遂におまえに対して口に出して言える父親ではなかった以上、おまえの方からそれを察してやらなければならないのだ。この謎を解いてやれ。そしてあのおやじに現れた若さと家霊の表現の意志を継いでやりなさい。それでなけりゃ、あんまりお前の家のものは可哀相《かわいそう》だ。家そのものが可哀相だ」
逸作はここへ来て始めて眼に涙を泛《うか》べた。
わたくしは「ああ」といって身体を震《ゆす》った。もう逸作に反対する勇気はなかった。わたくしはあまりにも潔癖過ぎる家伝の良心に虐《さい》なまれることが度々ある。そのときその良心の苛責《かしゃく》さえ残らず打明けて逸作に代って担って貰うこともある。で、今の場合にも言った。
「任せるわ。じゃ、いいようにしてよ」
「それがいい。お前は今夜ただ、気持を取直す工夫だけをしなさい」
逸作は、もしこのことで不孝の罰が当るようだったら俺が引受けるなどと冗談のように言って、それから女中に命じて雛妓《おしゃく》かの子を聘《へい》することを命じた。幸に、かの女はまだ帰らないで店にいたので、女中はその座敷へ「貰い」というものをかけて呉《く》れた。
「今晩は」
襖《ふすま》が開いて閉って、そこに絢爛《けんらん》な一つくね[#「一つくね」に傍点]の絹布《きぬぎ》れがひれ伏した。紅紫と卵黄の色彩の喰《は》み合いはまだ何の模様とも判らない。大きく結んだ背中の帯と、両方へ捌《さば》き拡《ひろ》げた両袖《りょうそで》とが、ちょっと三番叟《さんばそう》の形に似ているなと思う途
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