研究所の帰りに銀座へでも廻《まわ》って、また鼻つまりの声で友達とピカソでも論じてるのだろう」
弁天堂の梵鐘《ぼんしょう》が六時を撞《つ》く間、音があまりに近いのでわたくしは両手で耳を塞《ふさ》いでいた。
ここは不忍《しのばず》の池の中ノ島に在る料亭、蓮中庵の角座敷である。水に架け出されていて、一枚だけ開けひろげてある障子の間から、その水を越して池の端のネオンの町並が見亙《みわた》せる。
逸作は食卓越しにわたくしの腕を揺り、
「鐘の音は、もう済んだ」と言って、手を離したわたくしの耳を指さし、
「歌を詠む参考に水鳥の声をよく聞いときなさい。もう、鴨《かも》も雁《がん》も鵜《う》も北の方へ帰る時分だから」と言った。
逸作がご飯を食べに連れて行くといって、いつもの銀座か日本橋方面へは向わず、山の手からは遠出のこの不忍の池へ来たのには理由があった。いまから十八年前、画学生の逸作と娘歌人のわたくしとは、同じ春の宵に不忍池を観月橋の方から渡って同じくこの料亭のこの座敷でご飯を食べたのであった。逸作はそれから後、猛然とわたくしの実家へ乗り込んでわたくしの父母に強引にわたくしへの求婚をしたのであった。
「あのとき、ここでした君との話を覚えているか。いまのこの若き心を永遠に失うまいということだったぜ」
父の死によって何となく身体に頽勢の見えたわたくしを気遣い逸作は、この料亭のこの座敷でした十八年前の話の趣旨をわたくしの心に蘇《よみがえ》らせようとするのであった。わたくしもその誓いは今も固く守っている。だが、
「うっかりすると、すぐ身体が腑《ふ》が抜けたようになるんですもの――」
わたくしは逸作に護《まも》られているのを知ると始めて安心して、歿《な》くなった父に対する涙をさめざめと流すことが出来た。
父は大家の若旦那に生れついて、家の跡取りとなり、何の苦労もないうちに、郷党の銀行にただ名前を貸しといただけで、その銀行の破綻《はたん》の責を一家に引受け、預金者に対して蔵屋敷まで投げ出したが、郷党の同情が集まり、それほどまでにしなくともということになり、息子の医者の代にはほぼ家運を挽回《ばんかい》するようになった。
しかしその間は七八年間にもせよ、父のこの失態の悔は強かった。父はこの騒ぎの間に愛する妻を失い、年頃前後の子供三人を失っている。何《いず》れもこの騒ぎの影響を多少とも受けているであろう。家によってのみ生きている旧家の人間が家を失うことの怯《おび》えは何かの形で生命に影響しないわけはなかった。晩年、父の技倆《ぎりょう》としては見事過ぎるほどの橋を奔走して自町のために造り、その橋によってせめて家名を郷党に刻もうとしたのも、この悔を薄める手段に外ならなかった。
逸作は肉親関係に対しては気丈な男だった。
「芸術家は作品と理解者の外に肉親はない。芸術家は天下の孤児だ」そう言って親戚《しんせき》から孤立を守っていた。しかしわたくしの実家の者に対しては「一たいに人が良過ぎら」と言って、秘《ひそ》かに同情は寄せていた。
「俺はおまえを呉れると先に口を切ったおふくろさんの方が好きなんだが、そうかなあ、矢張り娘は父親に懐くものかなあ」
そう言って、この際、充分に泣けよとばかりわたくしを泣かして置いて呉れた。わたくしはおろおろ声で、「そうばかりでもないんだけれど、今度の場合は」と言って、なおも手巾《ハンケチ》を眼に運んでいた。
食品が運ばれ出した。私は口に味もない箸《はし》を採りはじめる。木の芽やら海胆《うに》やら、松露《しょうろ》やら、季節ものの匂《にお》いが食卓のまわりに立ち籠《こ》めるほど、わたくしはいよいよ感傷的になった。十八年の永い間、逸作に倣ってわたくしは実家のいかな盛衰にもあらわな情を見せまいとし、父はまた、父の肩に剰《あま》る一家の浮沈に力足らず、わたくしの喜憂に同ずることが出来なかった。若き心を失うまいと誓ったわたくしと逸作との間にも、その若さと貧しさとの故に嘗《かつ》て陥った魔界の暗さの一ときがあった。それを身にも心にも歎《なげ》き余って、たった一度、わたくしは父に取り縋《すが》りに行った。すると父は玄関に立ちはだかったまま「え――どうしたのかい」と空々しく言って、困ったように眼を外らし、あらぬ方を見た。わたくしはその白眼勝ちの眼を見ると、絶望のまま何にもいわずに、すぐ、当時、灰のように冷え切ったわが家へ引き返したのであった。
それが、通夜の伽《とぎ》の話に父の後妻がわたくしに語ったところに依ると、
「おとうさんはお年を召してから、あんたの肉筆の短冊を何処かで買い求めて来なさって、ときどき取出しては人に自慢に見せたり自分でも溜息《ためいき》をついては見ていらっしゃいました。わたしがあのお子さんにお仰《っ》しゃったら幾
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