うなことはしなかった。
 暗くならないまえ、雛妓は、これから帰って急いでお風呂に行き、お夜食を済してお座敷のかかるのを待つのだと告げたので、逸作はなにがし[#「なにがし」に傍点]かの祝儀包を与え、車を呼んで乗せてやった。
 わたくしたちは、それから息子の部屋へデッサンの描きさしを見に行った。モデルに石膏《せっこう》の彫像を据えて息子は研究所の夏休みの間、自宅で美術学校の受験準備の実技の練習を継続しているのであった。電灯を捻《ひ》ねって、
「ここのところは形が違ってら、こう直せよ」
 逸作が消しパンで無雑作に画の線を消しにかかると、息子はその手に取り付いて、
「あ、あ、だめだよ、だめだよ、お父さんみたいにそう無闇《むやみ》に消しちゃ」
 消させぬと言う、消すと言う。肉親の教師と生徒の間に他愛もない腕づくの教育が始まる。
 わたくしはこれを世にも美しいものと眺めた。


 それから、十日|経《た》っても二十日経っても雛妓は来ない。わたくしは雛妓が、商売女に相応《ふさわ》しからぬ考えを起したのを抱え主に見破られでもして、わたくしの家との間を塞《ふさ》がれてでもいるのではないかと心配し始めた。わたくしは逸作に訴えるように言った。
「結局、あの娘を、ああいう社会へは永く置いとけませんね」
「というと」と逸作は問い返したが、すぐ彼のカンを働かして、
「思い切って、うちで落籍でもしちまおうと言うのか」
 それから眼瞼《まぶた》を二つ三つうち合わして分別を纏《まと》めていたが、
「よかろう。俺がおまえに娘を一人生ませなかった詫《わび》だと思えば何んでもない。仕儀によったらそれをやろう」
 逸作は、こういう桁外《けたはず》れの企てには興味さえ湧《わ》かす男であった。「外遊を一年も延ばしたらその位の金は生み出せる」
 二人の腹はそう決めて、わたくしたちは蓮中庵へ行ってもう一度雛妓に会ってみることにした。そのまえ、念の為めかの女が教えて置いた抱え主の芸妓家《げいぎや》へ電話をかけてみる用意を怠らなかった。すると、雛妓は病気だといって実家へ帰ったという。その実家を訊《き》きただして手紙を出してみると、移転先不明の附箋《ふせん》が附いて返って来た。
 しかし、わたくしは決して想《おも》いを絶たなかった。あれほど契った娘には、いつかどこかで必ず廻《めぐ》り合える気がして仕方がないのであった。わたくしは、その想いの糸を片手に持ちながら、父の死以来、わたくしの肩の荷にかかっている大役を如何なる方図によって進めるかの問題に頭を費していた。
 若さと家霊の表現。この問題をわたくしはチュウインガムのように心の歯で噛《か》み挟み、ぎちゃぎちゃ毎日噛み進めて行った。
 わたくしを後援する伯母と呼ぶ遠縁の婦人は、歌も詠まないわたくしの一年以上の無為な歳月を、もどかしくも亦、解《げ》せなかった。これは早く外遊さして刺戟《しげき》するに如かないと考えた。伯母は、取って置きの財資を貢ぎ出して、追い立てるようにわたくしの一家を海外に送ることにした。この事が新聞に発表された。
 いくつかの送別の手紙の中に、見知らぬ女名前の手紙があった。展《ひら》くと稚拙な文字でこう書いてあった。

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奥さま。かの子は、もうかの子でなくなっています。違った名前の平凡な一本の芸妓になっています。今度、奥さまが晴れの洋行をなさるに就《つ》き、奥さまのあのときのお情けに対してわたくしは何をお礼にお餞別《せんべつ》しようかと考えました。わたくしは、泣く泣くお雛妓のときのあの懐かしい名前を奥さまにお返し申し、それとお情けを受けた歳の十六の若さを奥さまに差上げて、幾久しく奥さまのお若くてお仕事遊ばすようお祈りいたします。ただ一つ永久のお訣《わか》れに、わたくしがあのとき呼び得なかった心からのお願いを今、呼ばして頂き度《と》うございます。それでは呼ばせて頂きます。
  おかあさま、おかあさま

       むかしお雛妓の
           かの子より
 奥さまのかの子さまへ
[#ここで字下げ終わり]


 わたくしは、これを読んで涙を流しながら、何か怒りに堪えないものがあった。わたくしは胸の中で叫んだ。「意気地なしの小娘。よし、おまえの若さは貰った。わたしはこれを使って、ついにおまえをわたしの娘にし得なかった人生の何物かに向って闘いを挑むだろう。おまえは分限《ぶげん》に応じて平凡に生きよ」
 わたくしはまた、いよいよ決心して歌よりも小説のスケールによって家霊を表現することを逸作に表白した。
 逸作はしばらく考えていたが、
「誰だか言ったよ。日本橋の真ん中で、裸で大の字になる覚悟がなけりゃ小説は書けないと。おまえ、それでもいいか」
 わたくしは、ぶるぶる震えながら、逸作に凭《もた》れて
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