に傍点]な肉の力が盛り上り、年頃近い本然の艶《いろ》めきが、坐《すわ》っているだけの物腰にも紛飾を透けて浸潤《うる》んでいる。わたくしは思う、これは商売女のいろ気ではない。雛妓はわたくしに会ってから、ふとした弾みで女の歎《なげ》きを覚え、生の憂愁を味い出したのではあるまいか。女は憂いを持つことによってのみ真のいろ気が出る。雛妓はいま将《まさ》に生娘の情に還《かえ》りつつあるのではあるまいか。わたくしは、と見こう見して、ときどきは、その美しさに四辺を忘れ、青畳ごと、雛妓とわたくしはいつの時世いずくの果とも知らず、たった二人きりで揺蕩《ようとう》と漂い歩く気持をさせられていた。
 雛妓ははじめ商売女の得意とも義務ともつかない、しらばくれた態度で姿かたちをわたくしの見検めるままに曝《さら》していたが、夏のたそがれ[#「たそがれ」に傍点]前の斜陽が小学校の板壁に当って、その屈折した光線が、この世のものならずフォーカスされて窓より入り、微妙な明るさに部屋中を充《み》たした頃から、雛妓は何となく夢幻の浸蝕を感じたらしく、態度にもだんだん鯱張《しゃちほこば》った意識を抜いて来て、持って生れた女の便りなさを現して来た。眼はうつろに斜め上方を見ながら謡うような小声で呟《つぶや》き出した。
「奥さまのかの子さーん」
 わたくしは不思議とこれを唐突な呼声とも思わず、木霊《こだま》のように答えた。
「お雛妓さんのかの子さーん」
 二三度、呼び交わしたのち、雛妓とわたくしはだんだん声を幽《ひそ》めて行った。
「かの子さーん」
「かの子さーん」
 そして、その声がわたくしの嘗《かつ》て触れられなかった心の一本の線を震わすと、わたくしは思わず雛妓の両手を執った。雛妓も同じこころらしく執られた両手を固く握り返した。手を執り合ったまま、雛妓もわたくしも今は惜しむところなく涙を流した。
「かの子さーん」
「かの子さーん」
 涙を拭《ぬぐ》い終って、息をたっぷり吐いてからわたくしは懐かし気に訊《き》いた。
「あんたのお父さんはどうしてるの。お母さんはどうしているの。そしてきょうだいは」
 すると雛妓は、胸を前へくたり[#「くたり」に傍点]と折って、袖《そで》をまさぐりながら、
「奥さま、それをどうぞ訊かないでね。どうせお雛妓なんかは、なったときから孤児なんですもの――」
 わたくしは、この答えが殆ど逸作の若いときのそれと同じものであることに思い当り、うたた悵然《ちょうぜん》とするだけであった。そしてどうしてわたくしには、こう孤独な寂しい人間ばかりが牽《ひ》かれて来るのかと、おのれの変な魅力が呪《のろ》わしくさえなった。
「いいですいいです。これからは、何でもあたしが教えたり便りになってあげますから、このうち[#「うち」に傍点]もあんたの花嫁学校のようなつもりで暇ができたら、いつでもいらっしゃいよ」
 すると雛妓は言った。
「あたくしね、正直のところは、死んでもいいから奥さまとご一緒に暮したいと思いますのよ」
 わたくしは、今はこの雛妓がまことの娘のように思われて来た。わたくしはそれに対して、わたくしの実家の系譜によるわたくしの名前の由来を語り、それによればお互の名前には女丈夫の筋があることを話して力を籠《こ》めて言った。
「心を強くしてね。きっとわたくしたちは望み通りになれますよ」
 日が陰って、そよ風が立って来た。隣の画室で逸作が昼寝から覚めた声が聞える。
「おい、一郎、起きろ。夕方になったぞ」
 父の副室を居間にして、そこで昼寝していた一郎も起き上ったらしい。
 二人は襖《ふすま》を開けて出て来て、雛妓《おしゃく》を見て、好奇の眼を瞠《みは》った。雛妓は丁寧に挨拶《あいさつ》した。
 逸作が「いい人でも出来たので、その首尾を奥さんに頼みに来たのかい」なぞと揶揄《からか》っている間に、無遠慮に雛妓の身の周りを眺め歩いた一郎は、抛《ほう》り出すように言った。
「けっ、こいつ、おかあさんを横に潰《つぶ》したような膨《は》れた顔をしてやがら」
 すると雛妓は、
「はい、はい、膨れた顔でもなんでもようございます。いまにお母さんにお願いして、坊っちゃんのお嫁さんにして頂くんですから」
 この挨拶には流石《さすが》に堅気の家の少年は一堪《ひとたま》りもなく捻《ひね》られ、少し顔を赭《あか》らめて、
「なんでい、こいつ――」
 と言っただけで、あとはもじもじするだけになった。
 雛妓は、それから長袖《ながそで》を帯の前に挟み、老婢《ろうひ》に手伝って金盥《かなだらい》の水や手拭《てぬぐい》を運んで来て、二階の架け出しの縁側で逸作と息子が顔を洗う間をまめまめしく世話を焼いた。それは再び商売女の雛妓に還《かえ》ったように見えたけれども、わたくしは最早《もは》やかの女の心底を疑うよ
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