いた。
 この話を後に聴いて、逸作は後悔の念と共に深く心に決したものがあるようであった。「おまえと息子には屹度《きっと》、巴里《パリ》を見せてやるぞ」と言った。恩怨《おんえん》の事柄は必ず報ゆる町奴《まちやっこ》風の昔気質《むかしかたぎ》の逸作が、こう思い立った以上、いつかそれが執り行われることは明かである。だが、すべてが一家三人|珠数繋《じゅずつなが》りでなければ何事にも興味が持てなくなっているわたくしたちの家の海外移動の準備は、金の事だけでも生やさしいものではなかった。それを逸作は油断なく而《しか》も事も無げに取計いつつあった。
「いつ行かれるか判らないけれど、ともかくそのための侘住居《わびずまい》よ」
 わたくしは雛妓《おしゃく》に訳をざっと説明してから家の中を見廻《みまわ》して、「ですからここは借家よ」と言った。
 すると雛妓は、
「あたしも、洋行に一緒に行き度《た》い。ぜひよ。ねえ、奥さん。先生に頼んでよ」
 と、両手でわたくしの袂《たもと》を取って、懸命に左右へ振った。
 この雛妓は、この前は真面目《まじめ》な嫁になって身の振り方をつけ度いことを望み、きょうはわたくしたちと一緒に外遊を望む。言うことが移り気で、その場限りの出来心に過ぎなく思えた。やっぱりお雛妓はお雛妓だけのものだ。もはや取るに足らない気がして、わたくしはただ笑っていた。しかし、こうして、一先ず関心を打切って、離れた目で眺める雛妓は、眼もあやに美しいものであった。
 備後表の青畳の上である。水色ちりめんのごりごりした地へもって来て、中身の肉体を圧倒するほど沢瀉《おもだか》とかんぜ[#「かんぜ」に傍点]水が墨と代赭《たいしゃ》の二色で屈強に描かれている。そしてよく見ると、それ等の模様は描くというよりは、大小無数の疋田《ひった》の鹿の子絞りで埋めてあるだけに、疋田の粒と粒とは、配し合い消し合い、衝《う》ち合って、量感のヴァイヴレーションを起している。この夏の水草と、渦巻く流れとを自然以上に生々としたものに盛り上らせている。
 あだかも、その空に飛ぶように見せて、銀地に墨くろぐろと四五ひきの蜻蛉《とんぼ》が帯の模様によって所を得させられている。
 滝の姿は見えねど、滝壺《たきつぼ》の裾《すそ》の流れの一筋として白絹の帯上げの結び目は、水沫《みなわ》の如く奔騰して、そのみなかみの※[#「革+堂」、第3水準1−93−80、768−中−24]々《とうとう》の音を忍ばせ、そこに大小三つほどの水玉模様が撥《は》ねて、物憎さを感ぜしむるほど気の利いた図案である。
 こうは見て来るものの、しかし、この衣裳《いしょう》に覆われた雛妓の中身も決して衣裳に負けているものではなかった。わたくしは襟元から顔を見上げて行く。
 永遠に人目に触れずしてかつ降り、かつ消えてはまた降り積む、あの北地の奥のしら雪のように、その白さには、その果敢《はか》なさの為めに却《かえ》って弛《ゆる》めようもない究極の勁《つよ》い張りがあった。つまんだ程の顎尖《あごさき》から、丸い顔の半へかけて、人をたばかって、人は寧《むし》ろそのたばかられることを歓《よろこ》ぶような、上質の蠱惑《こわく》の影が控目にさし覗《のぞ》いている。澄していても何となく微笑の俤《おもかげ》があるのは、豊かだがういういしい朱の唇が、やや上弦の月に傾いているせいでもあろうか。それは微笑であるが、しかし、微笑以前の微笑である。
 鼻稜《びりょう》はやや顔面全体に対して負けていた。けれどもかかる小娘が今更に、女だてら、あの胸悪い権力や精力をこの人間の中心の目標物に於て象徴せずとも世は過ごして行けそうに思われる。雛妓のそれは愛くるしく親しみ深いものに見えた。
 眼よ。西欧の詩人はこれを形容して星という。東亜の詩人は青蓮に譬《たと》える。一々の諱《いみな》は汝の附くるに任せる。希《ねがわ》くばその実を逸脱せざらんことを。わたくしの観《み》る如くば、それは真夏の際の湖水である。二つが一々主峯の影を濃くひたして空もろ共に凝っている。けれども秋のように冷かではない。見よ、眄視《べんし》、流目の間に艶《あで》やかな煙霞《えんか》の気が長い睫毛《まつげ》を連ねて人に匂《にお》いかかることを。
 眉《まゆ》へ来て、わたくしは、はたと息詰まる気がする。それは左右から迫り過ぎていて、その上、型を当てて描いたもののように濃く整い過ぎている。何となく薄命を想《おも》わせる眉であった。額も美しいが狭《せば》まっていた。
 きょうは、髪の前をちょっとカールして、水髪のように捌《さば》いた洋髪に結っていた。
 心なしか、わたくしが、父の通夜明けの春の宵に不忍《しのばず》の蓮中庵ではじめて会った雛妓かの子とは、殆《ほとん》ど見違えるほど身体にしなやか[#「しなやか」
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