いてあげますよ」
 すると雛妓は殆《ほとん》ど生娘の様子に還《かえ》り、もじもじしていたが、
「奥さんにお目にかかってから、また、いろいろな雑誌の口絵の花嫁や新家庭の写真を見たりしてあたし今に堅気のお嫁さんになり度《た》くなったの。でも、こんなことしていて、真面目《まじめ》なお嫁さんになれるか知ら――それが」
 言いさして、そこへ、がばと突き伏した。
 逸作はわたしの顔をちらりと見て、ひょんな顔を深めた。
 わたくしは、いくら相手が雛妓でも、まさか「そんなこともありません。よい相手を掴まえて落籍《ひか》して貰えば立派なお嫁さんにもなれます」とは言い切れなかった。それで、ただ、
「そうねえ――」
 とばかり考え込んでしまった。
 すると、雛妓は、この相談を諦《あきら》めてか、身体を擡《もた》げると、すーっと座敷を出た。逸作は腕組を解き、右の手の拳《こぶし》で額を叩《たた》きながら、「や、くさらせるぞ」と息を吐《つ》いてる暇に、洗面所で泣顔を直したらしく、今度入って来たときの雛妓は再びあでやかな顔になっていた。座につくとしおらしく畳に指をつかえ、「済みませんでした」と言った。直《す》ぐそこにあった絵団扇《えうちわ》を執って、けろりとして二人に風を送りにかかった。その様子はただ鞣《なめ》された素直な家畜のようになっていた。
 今度は、わたくしの方が堪《たま》らなくなった。いらっしゃいいらっしゃいと雛妓を膝元《ひざもと》へ呼んで、背を撫《な》でてやりながら、その希望のためには絶対に気落ちをしないこと、自暴自棄を起さないこと、諄々《じゅんじゅん》と言い聞かした末に言った。
「なにかのときには、また、相談に乗ってあげようね、決して心細く思わないように、ね」
 そして、そのときであった。雛妓が早速あの小さい化粧鞄《けしょうかばん》の中から豆手帳を取り出してわたくしの家の処書きを認《したた》めたのは。
 その夜は、わたくしたちの方が先へ出た。いつも通り女中に混って敷台へ送りに出た雛妓とわたくしとの呼び交わす声には一層親身の響きが籠《こも》ったように手応えされた。
「奥さまのかの子さーん」
「お雛妓さんのかの子さーん」
「かの子さーん」
「かの子さーん」
 わたくしたちは池畔の道を三枚橋通りへ出ようと歩いて行く。重い気が籠った闇夜《やみよ》である。歩きながら逸作は言った。
「あんなに話を深入りさしてもいいのかい」
 わたくしは、多少後悔に噛《か》まれながら「すみません」と言った。しかし、こう弁解はした。
「あたし、何だか、この頃、精神も肉体も変りかけているようで、する事、なす事、
取り止めありませんの。しかし考えてみますのに、もしあたしたちに一人でも娘があったら、こんなにも他所《よそ》の娘のことで心を痺《しび》らされるようなこともないと思いますが――」
 逸作は「ふーむ」と、太い息をしたのち、感慨深く言った。「なる程、娘をな。」


 以前に、こういう段階があるものだから、今もわたくしは、雛妓が氷水でも飲み終えたら、何か身の上ばなしか相談でも切り出すのかと、心待ちに待っていた。しかし雛妓にはそんな様子もなくて、頻りに家の中を見廻《みまわ》して、くくみ笑いをしながら、
「洒落《しゃれ》[#「洒落《しゃれ》」は底本では「洒落《しゃれ》れ」と誤植]てるけど、案外小っちゃなお家ね」
 と言って、天井の板の柾目《まさめ》を仰いだり、裏小路に向く欄干《らんかん》に手をかけて、直ぐ向い側の小学校の夏季休暇で生徒のいない窓を眺めたりした。
 わたくしの家はまだこの時分は雌伏時代に属していた。嘗て魔界の一ときを経歴したあと、芝の白金でも、今里でも、隠逸の形を取った崖下《がけした》であるとか一樹の蔭であるとかいう位置の家を選んだ。洞窟を出た人が急に陽の目に当るときは眼を害する惧《おそ》れから、手で額上を覆っているという心理に似たものがあった。今ここの青山南町の家は、もはや、心理の上にその余翳《よえい》は除《の》けたようなものの、まだ住いを華やがす気持にはならなかった。
 それと逸作は、この数年来、わたくしを後援し出した伯母と称する遠縁の婦人と共々、諸事を詰めて、わたくしの為めに外遊費を準備して呉れつつあった。この外遊ということに就ては、わたくしが嘗て魔界の一ときの中に於て、食も絶え、親しむ人も絶え、望みも絶えながら、匍《は》い出し盛りの息子一郎を遊ばし兼ねて、神気朦朧《しんきもうろう》とした中に、謡うように言った。
「今に巴里《パリ》へ行って、マロニエの花を見ましょうねえ。シャンゼリゼーで馬車に乗りましょうねえ」
 それは自分でさえ何の意味か判らないほど切ないまぎれの譫言《うわごと》のようなものであった。頑是《がんぜ》ない息子は、それでも「あい、――あい」と聴いて
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