の方は気がたいへん軽くなった。それ故にこそ百ヶ日が済むと、嘗《かつ》て父の通夜過ぎの晩に不忍池《しのばずのいけ》の中之島の蓮中庵で、お雛妓かの子に番《つが》えた言葉を思い出し、わたくしの方から逸作を誘い出すようにして、かの女を聘《あ》げてやりに行った。「そんな約束にまで、お前の馬鹿正直を出すもんじゃない」と逸作は一応はわたくしをとめてみたが、わたくしが「そればかりでもなさそうなのよ」と言うと、怪訝《けげん》な顔をして「そうか」と言ったきり、一しょについて行って呉れた。息子の一郎は「どうも不良マダムになったね」と言いながら、わたくしの芸術家にしては窮屈過ぎるためにどのくらい生きるに不如意であるかわからぬ性質の一部が、こんなことで捌《さば》けでもするように、好感の眼で見送って呉れた。
蓮中庵では約束通りかの女を聘《よ》んで、言葉で番えたようにかの女のうちで遊んでいる姐《ねえ》さんを一人ならず聘んでやった。それ等の姐さんの三味線《しゃみせん》でかの女は踊りを二つ三つ踊った。それは小娘ながら水際立って鮮やかなものであった。わたくしが褒めると、「なにせ、この子の実父というのが少しは名の知れた舞踊家ですから」と姐さん芸妓《げいぎ》は洩《もら》した。すると、かの女は自分の口へ指を当てて「しっ」といって姐さんにまず沈黙を求めた。それから芝居の仕草も混ぜて「これ、こえが高い、ふな[#「ふな」に傍点]が安い」と月並な台詞《せりふ》の洒落《しゃれ》を言った。
姐さんたちは、自分たちをお客に聘ばせて呉れた恩人のお雛妓の顔を立てて、ばつを合せるようにきゃあきゃあと癇高《かんだか》く笑った。しかし、雛妓のその止め方には、その巫山戯方《ふざけかた》の中に何か本気なものをわたくしは感じた。
その夜は雛妓《おしゃく》は、貰われるお座敷があって、わたくしたちより先へ帰った。夏のことなので、障子を開けひろげた窓により、わたくしは中之島が池畔へ続いている参詣道《さんけいどう》に気をつけていた。松影を透して、女中の箱屋を連れた雛妓は木履《ぽっくり》を踏石に宛《あ》て鳴らして帰って行くのが見えた。わたくしのいる窓に声の届きそうな恰好《かっこう》の位置へ来ると、かの女は始めた。
「奥さまのかの子さーん」
わたくしは答える。
「お雛妓さんのかの子さーん」
そして嘗《かつ》ての夜の通り、
「かの子さーん」
「かの子さーん」
こう呼び交うところまでに至ったとき、かの女の白い姿が月光の下に突き飛ばされ、女中の箱屋に罵《ののし》られているのが聞えた。
「なにを、ぼやぼやしてるのよ、この子は。それ裾《すそ》が引ずって、だらしがないじゃありませんか」
はっきり判らぬが、多分そんなことを言って罵ったらしく、雛妓は声はなくして、裾を高々と捲《まく》り上げ、腰から下は醜い姿となり、なおも、女中の箱屋に背中をせつかれせつかれして行く姿がやがて丈高い蓮《はす》の葉の葉群れの蔭で見えなくなった。
その事が気になってわたくしは一週間ほど経《た》つと堪え切れず、また逸作にねだって蓮中庵へ連れて行って貰った。
「少しお雛妓マニヤにかかったね」
苦笑しながら逸作はそう言ったが、わたくしが近頃、歌も詠めずに鬱《うつ》しているのを知ってるものだから、庇《かば》ってついて来て呉《く》れた。
風もなく蒸暑い夜だった。わたくしたち二人と雛妓はオレンジエードをジョッキーで取り寄せたものを飲みながら頻《しき》りに扇風器に当った。逸作がまた、おまえのうちのお茶ひき連を聘《よ》んでやろうかというと、雛妓は今夜は暑くって踊るの嫌だからたくさんと言った。
わたくしが臆《おく》しながら、先夜の女中の箱屋がかの女に惨《むご》たらしくした顛末《てんまつ》に就《つい》て遠廻《とおまわ》しに訊《たず》ねかけると、雛妓は察して「あんなこと、しょっちゅうよ。その代り、こっちだって、ときどき絞ってやるから、負けちゃいないわ」
と言下にわたくしの懸念を解いた。
わたくしが安心もし、張合抜けもしたような様子を見て取り、雛妓は、ここが言出すによき機会か、ただしは未だしきかと、大きい袂《たもと》の袖口《そでぐち》を荒掴《あらづか》みにして尋常科《じんじょうか》の女生徒の運針の稽古《けいこ》のようなことをしながら考え廻《めぐ》らしていたらしいが、次にこれだけ言った。
「あんなことなんにも辛《つら》いことないけど――」
あとは謎《なぞ》にして俯向《うつむ》き、鼻を二つ三つ啜《すす》った。逸作はひょんな顔をした。
わたくしは、わたくしの気の弱い弱味に付け込まれて、何か小娘に罠《わな》を構えられたような嫌気もしたが、行きがかりの情勢で次を訊《き》かないではいられなかった。
「他に何か辛いことあるの。言ってごらんなさいな。あたし聴
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