しい説明することを省く。わたくしは、ただ父の遺骸《いがい》を埋め終ってから、逸作がわたくしの母の墓前に永い間|額《ぬか》づき合掌して何事かを語るが如く祈るが如くしつつあるのを見て胸が熱くなるのを感じたことを記す。
 母はわたくしを十四五の歳になるまで、この子はいじらしいところが退《の》かぬ子だといって抱き寝をして呉《く》れた。そして逸作はこの母により逸早く許しを与えられることによってわたくしを懐にし得た。放蕩児《ほうとうじ》の名を冒《おか》しても母がその最愛の長女を与えたことを逸作はどんなに徳としたことであろう。わたくしはただ裸子のように世の中のたつきも知らず懐より懐へ乳房を探るようにして移って来た。その生みの母と、育ての父のような逸作と、二人はいまわたくしに就《つい》て何事を語りつつあるのであろうか。
 わたくしはその間に、妹のわたくしを偏愛して男の気ならば友人の手紙さえ取上げて見せなかった文学熱心の兄の墓に詣《もう》で、一人の弟と一人の妹の墓にも花と香花《こうげ》をわけた。
 その弟は、学校を出て船に努めるようになり、乗船中、海の色の恍惚《こうこつ》に牽《ひ》かれて、海の底に趨《はし》った。
 その妹は、たまさか姉に遇《あ》うても涙よりしか懐かしさを語り得ないような内気な娘であった。生よりも死の床を幾倍か身に相応《ふさ》わしいものに思い做《な》して、うれしそうに病み死んだ。
 風は止んだ。多摩川の川づらには狭霧《さぎり》が立ち籠《こ》め生あたたかくたそがれて来た。ほろほろと散る墓畔の桜。わたくしは逸作の腕に支えられながら、弟の医者にちょっと脈を検められ、「生きの身の」と、歌の頭字の五文字を胸に思い泛《うか》べただけで急いで帰宅の俥《くるま》に乗り込んだだけを記して、早くこの苦渋で憂鬱《ゆううつ》な場面の記述を切上げよう。


「奥さまのかの子さーん」
 夏もさ中にかかりながらわたくしは何となく気鬱《きうつ》加減で書斎に床は敷かず枕《まくら》だけつけて横になっていた。わたくしにしては珍らしいことであった。その枕の耳へ玄関からこの声が聞えて来た。お雛妓《しゃく》のかの子であることが直《す》ぐ思い出された。わたくしは起き上って、急いで玄関へ下りてみた。お雛妓のかの子は、わたくしを見ると老婢《ろうひ》に、
「それ、ごらんなさい。奥さまはいらっしゃるじゃありませんか。嘘《うそ》つき」
 と、小さい顎《あご》を出し、老婢がこれに対し何かあらがう様子を尻眼《しりめ》にかけながら、
「あがってもいいでしょう。ちょっと寄ったのよ」
 とわたくしに言った。
 わたくしは老婢が見ず知らずの客を断るのは家の慣《なら》わしで咎《とが》め立てするものではありませんと雛妓を軽くたしなめてから、「さあさあ」といってかの子を二階のわたくしの書斎へ導いた。
 雛妓は席へつくと、お土産《みやげ》といって折箱入りの新橋小萩堂の粟餅《あわもち》を差し出した。
「もっとも、これ、園遊会の貰いものなんだけれど、お土産に融通しちまうわ」
 そういって、まずわたくしの笑いを誘い出した。わたくしが、まあ綺麗《きれい》ねと言って例の女の癖の雛妓の着物の袖《そで》を手に取ってうち見返す間に雛妓はきょう、ここから直ぐ斜裏のK――伯爵家に園遊会があって、その家へ出入りの谷中住いの画家に頼まれて、姐《ねえ》さん株や同僚七八名と手伝いに行ったことを述べ、帰りにその門前で訊《き》くと奥さまの家はすぐ近くだというので、急に来たくなり、仲間に訣《わか》れて寄ったのだと話した。
「夏の最中の園遊会なんて野暮でしょう。けど、何かの記念日なんだから仕方ないんですって。幹事さんの中には冬のモーニングを着て、汗だくでふうふう言いながらビールを飲んでた方もあったわ」
 お雛妓らしい観察を縷々《るる》述べ始めた。わたくしがかの女に何か御馳走《ごちそう》の望みはないかと訊くと、
「では、あの、ざくざく掻《か》いた氷水を。ただ[#「ただ」に傍点]水《すい》というのよ。もし、ご近所にあったら、ほんとに済みません」
 と俄《にわか》に小心になってねだった。
 わたくしの実家の父が歿《な》くなってから四月は経《た》つ。わたくしのこころは、葬儀以後、三十五日、四十九日、百ヶ日と過ぐるにつれ、薄らぐともなく歎きは薄らいで行った。何といっても七十二という高齢は、訣れを諦《あきら》め易くしたし、それと、生前、わたくしが多少なりとも世間に現している歌の業績を父は無意識にもせよ家霊の表現の一つに数えて、わたくしは知らなかったにもせよ日頃慰んでいて呉れたということは、いよいよわたくしをして気持を諦め易くした。勿論《もちろん》わたくしに取ってはそういう性質の仕事の歌ではなかったのだけれども。それでも、まあ無いよりはいい。
 で、そ
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