は、雛妓を弾《は》ねのけて居ずまいを直しながらきっぱり言った。
「何と言っても今夜は駄目だ。踊ったり謡ったりすることは出来ない。僕たちはいま父親の忌中なのだから」
その言い方が相当に厳粛だったので、雛妓も諦《あきら》めて逸作のそばを離れると今度はわたくしのところへ来て、そしてわたくしの膝《ひざ》へ手をかけ、
「奥さんにお願いしますわ。今度また、ぜひ聘《よ》んでね。そして、そのときは屹度《きっと》うちの姐《ねえ》さんもぜひ聘んでね」
と言った。わたくしは憫《あわ》れを覚えて、「えーえー、いいですよ」と約束の言葉を番《つが》えた。
すると安心したもののように雛妓はしばらくぽかんとそこに坐《すわ》っていたが急に腕を組んで首をかしげひとり言のように、
「これじゃ、あんまりお雛妓さんの仕事がなさ過ぎるわ。お雛妓さん失業だわ」
と、わたくしたちを笑わせて置いてから、小さい手で膝をちょんと叩《たた》いた。
「いいことがある。あたし按摩《あんま》上手よ。よく年寄のお客さんで揉《も》んで呉れって方があるのよ。奥さん、いかがですの」
といってわたくしの後へ廻った。わたくしは興を催し、「まあまあ先生から」といって雛妓を逸作の方へ押しやった。
十時の鐘は少し冴《さ》え返って聞えた。逸作は懐手をして雛妓に肩を叩《たた》いて貰いながら眼を眠そうにうっとりしている。わたくしはそれを眺めながら、ついに例の癖の、息子の一郎に早くこのくらいの年頃の娘を貰って置いて、嫁に仕込んでみたら――そして、その娘が親孝行をして父親の肩を叩く図はおよそこんなものではあるまいかなぞ勝手な想像を働かせていた。
わたくしたちが帰りかけると、雛妓は店先の敷台まで女中に混って送って出て、そこで、朧夜《おぼろよ》になった月の夜影を踏んで遠ざかり行くわたくしたちの影に向って呼んだ。
「奥さまのかの子さーん」
わたくしも何だか懐かしく呼んだ。
「お雛妓さんのかの子さーん」
松影に声は距《へだ》てられながらもまだ、
「奥さまのかの子さーん」
「お雛妓さんのかの子さーん」
ついに、
「かの子さーん」
「かの子さーん」
わたくしは嘗《かつ》て自分の名を他人にして呼んだ経験はない。いま呼んでみて、それは思いの外なつかしいものである。身のうちが竦《すく》むような恥かしさと同時に、何だか自分の中に今まで隠れていた本性のよ
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