ではありましたが、むつつりと意味深さうに今までのいきさつを聞いてゐた兄より先に妹娘がおとうさんに問ひかけました。すると、おとうさんより先きにおかあさんがその問ひを取つて云ひました。
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――それは美しい、そしてしとやかであでやかな娘さんでおありでした。
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おかあさんが口を切つたのをしほ[#「しほ」に傍点]におとうさんはおかあさんに頼みました。
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――おまへ、みんな私の事を知つて居る。私に代つて子供達に話してやつてお呉《く》れ。
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さういふおとうさんの顔をつい二人の子供はちらと見やつてしまひました。おとうさんは顎鬚《あごひげ》のそりあとを艶《つや》やかに灯《ほ》かげに照らして煙草《たばこ》のけむりを静《しずか》に吐いてゐました。
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――おとうさんが十六七歳になりなさつた頃、おとうさんの母親はある都の或る街に住みついて其処《そこ》で小間物を商《あきな》つて居《お》られました。わづかな資本で始めた店でしたけれど非常に器用なその母親が飾り付けるとお店の商品は生々して造花なんぞまるで生花のやうに上手な照明で見えるのでした。それにお店に炊きこめてある何か大変好いかをりの匂ひものが人達をひきつけて思ひがけないやうな品の好いお客様も時々は見えるやうになりました。
――ははあ、それからあのS家のお姫様のおはなしになる段どりですな。
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おとうさんが一寸《ちょっと》なつかしさうなへうきんな調子の横槍《よこやり》をいれましたが却《かえ》つておかあさんの息つぎにそれがなりました。
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――おとうさんはお店を手伝はなければならなかつたので学校は十六七の歳でやめておしまひになりましたが、やはり本性は男で、どうしても建築学を研究する志《こころざし》でお店を手伝ひ乍《なが》らも独学で一生懸命店裏で本を読んだり暇を見ては方々の街の有名な建築を見て歩いたりしていらしつた。でもよくしたもので、世間の人達はおとうさんのさういつた独学の建築学研究なんか眼に這入《はい》らず、おとうさんが娘姿でお店を手伝ふあでやかな姿ばかりに気をとめて評判をするやうになりました。
――S家のお嬢さまがいらしつたといふのはいつでしたの。
――まあお待ちなさいよ。それはおとうさんのあでやかな娘姿がお店へ出てから半年もたつた頃、ある日そのお方がおしのびで侍女二三人程連れて街へ買物がてら散歩にお出になつたのですよ。その時、ふとお店におはひりになつたのが始まりで……さあお嬢さまは何がお気にいりで店へさうさいさい[#「さいさい」に傍点]お出《い》でになるやうになつたのでせう。それは小さい非常に感じの好い、まるで月のかくれ家のやうなお店がお気にいりになり大変匂ひの好い炊きものの香もおこのみに合つたのかも知れませんが結局はその店に居るしとやかな娘姿のおとうさんがお好きだつたからだとあとで仰《おっしゃ》つたさうな。
――お嬢様はおとうさんが男で娘になつて居ることをもちろん知らなかつたんでせうな。
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と兄がませた口調で聞きました。
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――ええ、もちろんですとも、そんなこと少しも御存じなくておとうさんをお好きになつたのだから、それは純粋なごひいき様におなりになつたわけなのだよ。
――そのお嬢様はお美しかつたの、おかあさん。
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おかあさんは少し困つたやうに娘の問ひに答へました。
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――お美しかつたとも、ねえおとうさん。お美しいお嬢様でしたともねえ。
――ああ、美しいお嬢様でした。
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おとうさんの頬《ほお》は何故《なぜ》か少し赫《あか》らみました。
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――まあ、それはともかく、おとうさんはたうとうお嬢様に好かれ切つておしまひになり、S家へ来て欲しいとお嬢様から懇望されなさつた。始めはお嬢様のお相手などして折角の建築学の研究を止《や》めなければならないのは厭《いや》だとお思ひになつた相《そう》だけれど、よくお考へなさるとそのS家といふのは都でも名だたる富豪で、本邸は云ふに及ばず広い屋敷内に実に珍らしい建築の亭《ちん》や別荘をお持ちになつていらつしやることに気付き、とてもただではさういふ建築の内部など拝見出来ない、当分お嬢様のお相手がてらさういふ処の見学をなさるおつもりで承知なさつた。ただし、親一人子一人の淋《さび》しい母親を置いて行くのだからお風呂の日だけは実家へ戻
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