秋の夜がたり
岡本かの子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)田舎《いなか》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)母|乍《なが》ら

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「けはひ」に傍点]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)くしや/\
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 中年のおとうさんと、おかあさんと、二十歳前後のむすこと、むすめの旅でありました。
 旅が、旅程の丁度半分程の処で宿をとつたのですがその国の都と、都から百五十里も離れた田舎《いなか》との中間の或る湖畔の街の静《しずか》なホテルです。
 その国と云ひましたが、さあ、日本か、外国か、今か、昔かと、それを作者はどう極《き》めませう。実は、日本でも外国でも、今でも昔でも関《かま》はないのです。この物語の真実や、真味は、さういふことに一向かまはないで作者の意図に登り、そして読者に語られようとしてゐます。だが挿画《さしえ》画家さんにお気の毒ですね。黒眼を描かうか碧眼《へきがん》を現はさうか縮毛《ちぢれげ》か延髪か描き分けよう術《すべ》もありませんでせうから。ですから具体的な人物でなくとも、草か木か鳥獣か花かで、この物語の読後の気持を現はして下さつても宜《よ》いのです。といつて私がこれ以上くどく画家さんに指図をしなくてもそれはその道の技量敏感で、どうしてでも筋や真実真味のけはひ[#「けはひ」に傍点]を現はして下さるでせうから、私は私の物語に遠慮なくは入《い》らして頂きませう。
 季節は秋です。夕方すこし烈《はげ》しかつた風もすつかり落ちて、草木のけはひが風にもまれなかつた前の静《しずか》なたゝずまひに返り、月が、余り明る過ぎない程の明るさで宵の山の端にかかりました。ホテルの窓からはほんの湖水の一端しか見えませんが、その一端の澄み上つた爽《さわや》かさが広い全面の玲朗《れいろう》さを充分に想はせる効果をもつて四人の健康な清麗な親子の瞳に沁《し》み入りました。そして、今、給仕人が引下げて行つたばかりの晩餐《ばんさん》の幾つもの皿には、その湖水でとれた新らしい香の高い魚類が料理されてあつたのです。それらの皿と入れ違ひに、附近の山でとれたといふ採りたての無花果《いちじく》の実が、はじけ相《そう》な熟した果肉を漸《ようや》く圧《おさ》へた皮のいろも艶《つや》やかに、大きな鉢に入れられて濃いこうばしいお茶と一緒に運ばれました。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――おとうさん。今夜こそ、わたし達は私達の真実のことを、この子供達にお話しいたしませうね。
――ああ、それが好い。
[#ここで字下げ終わり]
 これがおとうさんの返事です。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――さうよ、おかあさん。もう四五年前からのお約束ですもの。
――僕たちが二十位になつたら話してあげるつて仰《おっしゃ》つたことがありましたつけ。
[#ここで字下げ終わり]
 歳も二十と十九の一つ違ひのむすこと、むすめが言ひました。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――まあ無花果をたくさん喰べてな、お茶もこうば[#「こうば」に傍点]しいぞ、月が半分も、あの山の端に傾いた頃から話し出さうよ。
[#ここで字下げ終わり]
 おとうさんが、きつぱりと云ひますと、先に云ひ出したおかあさんがいそいそとしたなかにもすこし恥《はずか》し相な赫《あか》らめた顔色を見せました。わが母|乍《なが》ら美くしい愛らしいと、むすめはそれを眺めました。


 おとうさんもおかあさんも、今度一族が出発して来た田舎《いなか》の人ではありませんでした。実は今夜一晩保養の為に優勝の地として名高い此《こ》の湖畔で楽しいくつろぎをしてから更に明日出向いて行かうとする都の生れの人達なのでありました。
 都でもと生れた人が百五十里もの遠い田舎の人となり、其処《そこ》でむすことむすめを設け、土着の住民となつたからとてそれが別に大して珍らしいことでもむづかしいわけのものでもありません。けれど、このおとうさんと、おかあさんがさうなつた径路についてはそこにほかの人並とは違つた事情があつたのであります。
 知る人ぞ知る。とでも云ひ度《た》いところですが、さすがに百五十里はなれれば、そしてこのおとうさんやおかあさんのやうに自然すぎるほど落ついて土着して仕舞《しま》へば実際、あやしむ人はおろか、当のおとうさんおかあさん自身でさへ殆《ほとん》ど自分達の前身は忘れはてたやうなものでした。おそらく田舎《いなか》暮らし何年間を他人事のやうに昔を思ひ隔てて仕舞つて居たにちがひありません。
 昔四十何年か前に、おとうさんとおかあさんは非常に仲好しの女友達同志を母親とし
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