上田秋成の晩年
岡本かの子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)翁《おきな》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)米|醤油《しょうゆ》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「王+連」、第3水準1−88−24]

 [#…]:返り点
 (例)明日身不[#レ]苦
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 文化三年の春、全く孤独になつた七十三の翁《おきな》、上田秋成は京都南禅寺内の元の庵居《あんきょ》の跡に間に合せの小庵を作つて、老残の身を投げ込んだ。
 孤独と云つても、このくらゐ徹底した孤独はなかつた。七年前三十八年連れ添つた妻の瑚※[#「王+連」、第3水準1−88−24]尼《これんに》と死に別れてから身内のものは一人も無かつた。友だちや門弟もすこしはあつたが、表では体裁のいいつきあひはするものの、心は許せなかつた。それさへ近来は一人も来なくなつた。いくらからかひ半分にこの皮肉で頑固なおやぢを味《あじわ》ひに来る連中でも、ほとんど盲目に近くなつたおいぼれをいぢるのは骨も折れ、またあまり殺生《せっしょう》にも思へるからであらう。秋成自身も命数のあまる処を観念して、すつかり投げた気持になつてしまつた。
 文化五年死の前の年の執筆になる胆大小心録の中にかう書いてゐる。
 もう何も出来ぬ故《ゆえ》、煎茶《せんちゃ》を呑んで死をきはめてゐる事ぢや――
 小庵を作るときにも人間の住宅に対する最後の理想はあつた。それはわづか八畳の家でよかつた。その八畳のなかの四畳を起き臥《ふ》しの場所にして、左右二畳づつに生活の道具を置く。机は東側の※[#「片+(戸<甫)」、第3水準1−87−69]下《まどした》に持つて行き、そばに炉を切り、まはりの置きもの棚に米|醤油《しょうゆ》など一切飲み食ひの品をまとめて置く。西の端の一畳分の上に梅花の紙帳を釣り下げ、その中に布団から、脱ぎ捨てた着物やらを抛《ほう》り込んで置く。夏の暑さのために縁の外の葦竹《あしだけ》、冬の嵐気《らんき》を防ぐために壁の外に積む柴薪《さいしん》――人間が最少限の経費で営み得られる便利で実質的な快適生活を老年の秋成はこまごまと考へて居た。しかし、その程度の費用さへ彼は弁じ兼ねた。やむを得ず建てたところのものは、まつたく話にもならぬほんの間に合せの小屋に過ぎなかつた。彼は投げた気持の中にも怒りを催さないでは居られなかつた。――七十年も生きた末がこれか、と。しかし、すぐにその怒りを宥《なだ》めて掌《てのひら》の中に転《ころば》して見る、やぶれかぶれの風流気が彼の心の一隅から頭を擡《もた》げた。彼は僅《わず》かばかりの荷物のなかを掻《か》き廻して、よれた麻の垂簾《すいれん》を探し出した。垂簾には潤《うるお》ひのある字で『鶉居《うずらい》』と書いてあつた。彼はその垂簾の皺《しわ》をのばして、小屋の軒にかけた。
 彼は十七八年前、五十五歳のときに家族と長柄《ながら》川のそばに住んで居たことがあつた。長柄の浜松がかすかに眺められ、隣の神社の森の蔭になつてゐて気に入つた住家だつた。彼はその時、家族を背負つたまま十数度も京摂の間に転宅して廻つたので、住家の安定といふことには自信が無くなつてゐた。自信を失ひながらなほ安定した気持になりたかつたので、その垂簾を軒にかけたのだつた。『鶉居』と書いたのは鶉《うずら》は常居なし、といふいひ慣《ならわ》しから思ひついた庵号《あんごう》だつた。
 さうした字のある垂簾をかけた小さい自分の家を外へ出て顧りみると、世界にたつた一つ住み当てた自分の家といふ気がして、そのとき、もはや老年にいりかけて居た彼は、こどものやうになつて悦《よろこ》んだ。しかし、その悦びも大して長く続かず、六年目には垂簾を巻いて京都へ転居したのをきつかけに、再び住居の転々は始つた。
 垂簾はかなりよごれてゐた。秋成は長柄の住家ではじめてそれをかけたと同じやうに外へ出て眺め返してみた。小庵は新しいので垂簾のよごれは目立つた。彼は住居に対する執著《しゅうちゃく》の亡霊がまだ顔をさらしてゐるやうで軽蔑《けいべつ》したくなつた。しかし、いくら運命が転居させたがつても、もうさうはおれの寿命は続かなからう。今度こそはおれは一つの家に住み切つてしまふのだ。さう思ふと痛快な気がして==ざま見い。と彼は垂簾に向つて云つた。そしてその気持を妻の瑚※[#「王+連」、第3水準1−88−24]尼に話したくなつた。==瑚※[#「王+連」、第3水準1−88−24]よ。いまだけでいい。ちよつと話し相手に墓場から出て来んかい。
 彼はもしこの小屋なら妻はいつも其処《そこ》に起き暮しするだらうと思ふ、小箱程の次の間に向つて壁越しに云つた。あとは笑ひにまぎらした。


 紙袋からぽろぽろと焼米を鉢にあけて、秋成はそれに湯を注いだ。そこにあつた安永五年刊の雨月《うげつ》物語を取つて鉢の蓋《ふた》にした。この奇怪に優婉《ゆうえん》な物語は、彼が明和五年三十五歳のときに書いたものである。書いてから本になるまで八年の月日がかかつてゐる。推敲《すいこう》に推敲を重ねた上、出版にもさうたう苦労が籠《こも》つてゐた。顧みると国文学者の分子の方が勝つてしまつた彼の生涯の中で、却《かえっ》て生れつき豊《ゆたか》であつたと思はれる、物語作者の伎倆《ぎりょう》を現したのは僅《わず》かに過ぎない。その僅かの著作のうちで、この冊子は代表作であるだけに他の著作は散逸させてしまつても、これには愛惜の念が残り、晩年になるほど手もとに引つけて置いた。それかと云つてさほど大事にして仕舞《しま》つて置くといふこともなかつた。運命に馬鹿《ばか》にされ、引ずり廻されたやうな一生の中で、自分の好みや天分が何になつたか。なまじそれがあつた為に毛をさか※[#「てへん+宛」、第3水準1−84−80]《も》ぎにされるやうなくるしい目にあつたと思へば、感興に殉じた小伎倆《こうで》立てが、自分ながらいまいましく、この冊子を見る度にをこな自分を版木に刷り、恥ぢづら掻《か》いて居るやうで、踏まば踏め、蹴《け》らば蹴れ、と手から抛《ほう》つて置くとこまかせ、そこら畳の上に捨てても置いた。この冊子が世間で評判のよかつたことにも何といふことなしに反感が持てた。要するに愛憎二つながらかかつてゐる冊子であるため、ついそばに置いて居るといふのが本当のところかも知れない。土瓶敷《どびんしき》代りにもたびたび使つた。鍋《なべ》や土瓶の尻《しり》しみが表紙や裏に残月形に重つて染みついてゐた。
 湯気で裏表紙が丸くしめり脹《ふく》らんだ蓋《ふた》の本をわきへはねて、鉢《はち》の中にほどよく膨《ふく》れた焼米を小さい飯茶椀《めしぢゃわん》に取分け、白湯《さゆ》をかけて生味噌《なまみそ》を菜《さい》にしながら、秋成はさつさと夕飯をしまつた。身体は大きくないが、骨組はがつちりしてゐて、顎《あご》や頬骨《ほおぼね》の張つてゐるあばた面《づら》の老人が、老いさらばひ、夕闇に一人で飯を喰べて居る姿はさびしかつた。とぼけたやうな眼と眼が、人並より間を置いて顔についてゐるのが、蛙《かえる》のやうに見える。
 箸《はし》を箸箱に仕舞《しま》ひながら、彼はおおさうぢやと気がついて、部屋の隅からざるで伏せてあつた小鍋を持つて来て箸を突込み、まづさうに食ひ始めた。鍋にはどぜうが白つぽく煮てあつた。彼はこれを喰べるとき、神経質に窓や裏口を睨《にら》んだ。五十七歳で左眼をつぶして仕舞ひ、六十五歳でその左の眼がいくらか治つたかと思ふと、今度は右の眼が見えなくなつた。それから死を待つ今日まで眼の苦労は絶えなかつた。
 どぜうがよろしいと勧める人があるので食ひ続けて居るのを、一度わからずやの僧侶に見つかつて、人間は板歯で野菜|穀《こく》もつを食ふやうに出来てゐる。どぜうなど食ふは殺生《せっしょう》のみか理に外《はず》れてゐる。とたしなめられ、その場は養生喰ひだと、抗弁はしたものの、その後は、食ふたびに気がさした。死ぬのに眼などはもうどうでもよろしいではないかと思ひつつも養生はやめられなかつた。
 小さいとき驚癇でしばしばなやまされながらも、神経の強い彼はときどき妄想性にかかつた。狐狸《こり》の仕業はかならずあるものと信じて居た。内心|忸怩《じくじ》としながらかうやつてどぜうの骨をしやぶつてゐるときには、あの忠告した坊主がほんたうは自分も食ひ度《た》いのだがそれが食へぬので、あんな嫌がらせをいつたので、それを押して食つて居る自分を嗅《か》ぎつけたら、うらやましくなつて、何か化性にでもなつて現れて来るやうな気がした。事実その姿は変に薄つぺらな影絵となつて障子《しょうじ》の紙から抜けたり吸ひ込まれたりするのを彼は感じた。すると彼はいつそ大胆になつて、わざと大ぴらにどぜうを食つて見せるのだつた。それで影絵が消えて仕舞ふと、彼は勝利を感じて箸をしまつた。南禅寺の本堂で、卸戸《おろしど》をおろす音がとどろいた。その間に帚《ほうき》で掃くやうな木枯《こがらし》の音が北や西に聞えた。彼は行燈《あんどん》をつけてから、煎茶《せんちゃ》の道具を取り出した。
 彼は後世、煎茶道の中興の祖と仰がれるだけにこの齢になつても、この道には執著を持つた。むしろ他の道楽を一つ一つ切り捨てて行つて、たつた一つを捨て切れず、残した好みであるだけに全身的なものがあつた。「茶は高貴の人に応接するが如し、烹点《ほうてん》共に法を濫《みだ》れば其《その》悔かへるべからず」これが、彼の茶に対するときの心構へであつた。それで、茶具の数も、定めの数の二十具を減して十六にし、また、十二具にし、やぶれた都籠から取出したのはぎりぎり間に合せの茶瓶、茶盞、茶罌《ちゃつぼ》ぐらゐの数に過ぎなかつた。けれど、煎茶の態度は正しかつた。生活は老貧のくづすままに任せたけれど、そのなかにただ一筋、格をくづさぬものを、踏みとどめ残して置きたいといふのが、老人の最後の自尊心だつた。
 彼は、湯鑵《ゆがま》に新しく水をいれて来て火鉢に炭をつぎ添へてかけた。彼は水にやかましかつた。近所の井戸のものには腥気《せいき》があるとか、鹹気《かんき》があるとかいつて用ひなかつた。わざわざ遠くの一条の上の井戸から人を雇つて甕《かめ》に汲《く》みいれさせた。
 京摂の間では、宇治の橋本の川水が絶品だと云つて、身体のまめなうちは、水筒を肩にかけ一日仕事でよく汲みに行つた。それらの水を貯へた甕は夕方から庭に持ち出して蓋《ふた》をとり、紗帛で甕の口を覆ひ、夜天に晒《さら》した。かうすると、水は星露の気を承《う》けて、液体中の英霊を散らさないと、彼は信じて居た。何でも事物の精髄を味《あじわ》ふことには、彼はどんらんな嗜慾《しよく》を持つて居た。
 彼はゆつたりと坐《すわ》つて作法のやうに受汚《ちゃきん》で茶盞を拭《ぬぐ》ひ、茶瓶の蓋を開けて中を吟味し、分茶盒《ちゃいれ》と茶罌を膝《ひざ》元に引付けた。そして湯の沸くのを待つた。彼は幼時、いのちにかかはるほどの疱瘡《ほうそう》をして、右の手の中指は小指ほどに短かつた。左の手の人差指も短かつた。さういふ不具の手を慣して器物を扱つてゐるので、一応は何気なく見えるが、よく見ると手首は器物に獅噛《しが》みついてゐた。まるで餓鬼《がき》の執著ぢや。彼はわざといやなものを自分に見せつけるいこぢな習癖がここに起るときに、その手首を眼の前でひねくつて、ひとりくつくつと笑つた。さういふ手で筆を執《と》るのだから、どうせろくな字を書けつこないと自分を貶《けな》し切り、人がどんなに出来|栄《ば》えを褒《ほ》めても決して受け容れなかつた。
 火鉢にかけた湯鑵の湯水が、やうやく暖まつて来て、微々の音を立てるやうになつた。秋成は、膝に手を置いて、そより、とも動かなかつた。ただ湯の沸くのを待つだけが望みであるこの森厳で気易《きやす》い時間に身を任せた。木枯《こがらし》が小屋を横に掠《かす》め、また
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