真上から吹き圧《おさ》へる重圧を、老人の乾いて汚斑《しみ》の多い皮膚に感じてゐた。
永い年月|工夫《くふう》したかういふ境地に応ずべき気の持ちやうが自然と脱却して、いまは努めなくても彼の形に備《そなわ》つてゐた。それは「静にして寂しからず」といふこつ[#「こつ」に傍点]であつた。
湯が沸いて「四辺泉の湧《わ》くが如く」「珠《たま》を連ぬるが如く」になつた。もうすこしすると「騰波鼓浪《とうはころう》の節に入り、ここに至つて水の性消え即《すなわ》ち茶を煮べき」湯候《ゆごろ》なのである。秋成には期待の気持が起つて熱いものが身体を伝《つたわ》つて胸につき上げて来るのを覚えた。それが茶に対する風雅な熱意ばかりであるのかと思ふと、さうではなく、それに芽生《めば》えたいろいろな俗情が頭を擡《もた》げて来るのであつた。
青年時代の俳諧《はいかい》三昧《ざんまい》、それをもしこの年まで続けて居たとすれば、今日の淡々如きにかうまで威張《いば》らして置くものではない。淡々|奴《め》根が材木屋のむすこだけあつて、商才を弟子集めの上に働《はたらか》して、門下三千と称してゐる。これがまづ、いまいましい。四十の手習ひで始めた国学もわれながら学問の性はいいのだが、とにかく闘争に気を取られ、まとまつた研究をして置かなかつたのが次に口惜《くや》しい。俺を、学問に私すると云つた江戸の村田|春海《はるみ》、古学を鼻にかける伊勢の本居宣長《もとおりのりなが》、いづれも敵として好敵ではなかつた。筆論をしても負けさうになればいつでも向ふを向いて仕舞《しま》ふぬらくらした気色の悪い敵であつた。これに向ふにはつい嘲笑《ちょうしょう》や皮肉が先きに立つので世間からは、あらぬ心事を疑はれもした。人間性の自然から、独創力から、純粋のかん[#「かん」に傍点]から、物事の筋目を見つけて行かうとする自分のやり方がいかに旧套《きゅうとう》に捉《とら》はれ、衒学《げんがく》にまなこが眩《くら》んでゐる世間に容れられないかを、ことごとく悟つた。
和歌については、小沢蘆庵《おざわろあん》のことが胸に浮んだ。一方では、堂上風の口たるい小細工歌が流行《はや》り、一方では古学派のわざとらしい万葉調の真似手の多いなかに、敢然《かんぜん》立つて常情平述主義を唱へ「ただ言歌《ことうた》」の旗印を高く掲げた才一方の年上の老友がうらやまれた。自分に、若《も》し、もう少し和歌の志《こころざし》が篤《あつ》く、愚直の性分があつたら、あの流儀は自分がやりさうなことであつた。その「ただ言歌」の心要として蘆庵の詠《よ》んだ、
[#ここから2字下げ]
言の葉は人の心の声なれば
思ひを述ぶるほかなかりけり。
[#ここで字下げ終わり]
といふ歌などは「雨降るわ、傘《かさ》持てけ」のたぐひで歌とも何とも云ひやうのないものだが、なぜかそれが、歌を詠まうとするときには、必ず先きに念頭に浮んで詠みはづまうとする言葉の出頭《でがしら》を抑へ、秋成をいまいましがらせた。
野暮な常識臭いものを固く執《と》つて動かない蘆庵の頑迷|不遜《ふそん》が彼の感興を醒《さま》した。そしてまた歌はいくらやつても蘆庵が先きに掻《か》き廻して居るといふ感じが強かつた。蘆庵といふ男は始め天下一の剣士になるつもりで、それが適《かな》ひさうもなくなつたので、歌に変つたのだといふほどあつて、とても一徹なところがあり、四十年近くも地虫のやうに岡崎に棲《す》みつき、二本の庭の松を相手に、歌のことばかり考へて居た。自分がはじめて彼を訪ねたときには、もてなしだと云つて、武骨な腕で、琴をひいて聴かせたものだ。そのまじめくさつた歌にはをかしくて堪へられなかつたが、無理に我慢して歌詠み仲間の礼儀に歌の遣《や》り取りをしたものだつた。だが深切気のあるおやぢで、自分ののらくらして居るのを見兼《みか》ねて、せめて弟子取りでもしろと、勧めて呉《く》れた。自分はおもふさまなことを云つてそれをはねつけ、あの律儀なおやぢに、溜息《ためいき》を吐《つ》かせた。
大雅《たいが》、応挙《おうきょ》、月渓《げっけい》などといふ画人が、急に世にときめき出したのも、癪《しゃく》に触つた。彼等の貧乏時代は、茶屋の掛行燈《かけあんどん》など引受け、がむしやらに雑用《ぞうよう》稼ぎをして、見られたざまではなかつたのを、この頃はすつかり高くとまり、方外の画料を貪《むさぼ》る。中にも月渓とは、智恩院の前の住ひでは、すぐ近所合ひであり、東洞院では同じ長屋住ひで味噌《みそ》醤油《しょうゆ》の借り貸し、妻の瑚※[#「王+連」、第3水準1−88−24]尼が飲める口であつたので、彼はよい飲み友達にして湯豆腐づくめの酒盛りなど、度々したものだつた。その頃からこの画描きは、食ひ道楽、飲み道楽、その上にもう一つの道楽もあつたのを、出世したから堪《たま》らない。すつかり身体をこはし、せん頃久しぶりに見舞つたら、樽詰《たるづ》めの不如法のさらし者を見るやうに衰弱して居た。しかも、それで居ながら酒の肴《さかな》は豆腐か、つくしにかぎるなどと、まだ食気のことを云つて居た。岸駒が俗慾の奢《おご》りを極め、贅沢《ぜいたく》な普請をして同功館などと大そうもない名をつけたのも癪に触つた。絵は、書典と功が同じである、それで画屋は同功館であるといふいはれださうだ。変なつけ上り方をすればするものだ。
かういふ不平を続けて込み上らせて来ると秋成は、骨格の太さに似合はず少量な血が程よく身体を循環して、ぽつと心に春めくものを覚えるのだつた。眼瞼《がんけん》がぴくぴく痙攣《けいれん》するのも一つの張合ひになつて来た。湯鑵の湯はすつかり沸き切つて、むやみにぐらぐらひつくりかへつてゐるが彼はかまはなかつた。それよりもこの場合、肉体的に何か鋭い刺戟《しげき》を受けて興奮した、いまの気持を照応せしめたかつた。そこで湯鑵の熱い膚《はだ》に指の先きを突きつけた。痛熱い触覚が、やや痺《しび》れてゐる左の手の指先きに噛《か》みつくと、いはうやう無い快感が興奮した神経と咄嗟《とっさ》に結びつき、身体中がせいせいと明るくされるやうである。彼はこの分ならまだ五六年は生き堪へられるぞと、心中で呼ぶのだつた。彼は左の手の中で一本湯鑵の胴に触らないで痺れたままの感覚で取残されてゐる例の疱瘡《ほうそう》で短くなつてゐた人差指をも、公平にこの快味に浴させようと、他の四本の指を握り除け、片輪な指だけ、湯鑵の胴にぢりりと押つけた。甘美な疼痛《とうつう》がこの指をも見舞つた。いつそこの指を火にくべて、われとわが生命の焼ける臭ひを嗅《か》いだらどれほどこころゆくことだらう。
気持が豪爽《ごうそう》になつて来るとまだまだ永く生きられさうな気がし出した。むしろ、これからだといふ気さへし出した。==人間はいつまでたつても十七八の気持は残つてゐる、と若いたいこ[#「たいこ」に傍点]持ち茶人の宗了といふ男が、自分に体験もないくせに、誰に聴いたものか、かう云つたのを覚えて居る。その若いたいこ[#「たいこ」に傍点]持ち茶人の宗了だが、彼が茶番をして、千鳥の役を引受けて酒席へ出たことがあつた。美男のうへ、念入りの化粧をしたので、芸子女中まで見惚《みと》れるくらゐだつた。ところがその顔の額《ひたい》へもつていつて彼は「千鳥」と太文字で書き入れた。それから右の頬《ほお》づらへ師匠の宗佐の名を鑑定の印の形に似せて朱で書き入れた。この趣向は飛抜けて奇抜だつたので、たちまち京阪《けいはん》の遊び仲間の評判になつた。当時その酒席に居た秋成は、宗了のこの働きを眼の前に見て、これがほんたうの若さから来る即興といふものではないかと感じたことであつた。どう思ひ切つても秋成自身には、この芸は出来さうもなかつた。宗了の美男と、若さ、がうらやまれた。
さて、秋成自身ふり返つて見るのに、自分の肉体には若いうちから老いが蝕《むしば》んでゐて、思ひ切つた若さも燃えさからなかつた。だが、わが身のうちに蝕《むしば》んだこの若い頃からの老いが、その代り自分のなかにある不思議な情緒を、この七十の齢まで包みかばひ保たしてゐるのかも知れない。うつし世のうつしごとの上では満足出来ず、さればとて死を越えては、いよいよ便りを得さうも無い欲情――わづかにそれを紙筆の上に夢にのみ描いて、そのあとを形にとどめて来た。それは現実の自分の上では、身体でつきとめようとすれば、こころに遁《のが》れ、こころで押へようとすれば身体に籠《こも》る。雨晴れて月|朦朧《おぼろ》の夜にちび筆の軸を伝つてのみ、そのじくじくした欲情のしたたりを紙にとどめ得た。『雨月』『春雨《はるさめ》』の二草紙はいはばその欲情の血膿《ちうみ》を拭《ぬぐ》つたあとの故紙《こし》だ。しかし肉漿《にくしょう》や膿血は拭ひ得てもその欲情の難《くるし》みのしんは残つてゐる。この老いにしてなほ触るれば物を貪《むさぼ》り恋ふるこころのたちまち鎌首《かまくび》をもたげて来るのに驚かれた。そして、貪り恋ふる目標物の縹眇《ひょうびょう》として捕捉し難いのにも自分|乍《なが》ら驚かれた。
それは正体が無くて、不思議なしわざだけする妖怪によく似てゐた。霽《は》れかかつた朝霧の中に冴《さ》えだけ見せてゐる色の無い虹《にじ》のやうにも覗《のぞ》かれた。
老いを忘れる為に思ひ出に耽《ふけ》るとは卑怯《ひきょう》な振舞ひとして、秋成はかねがね自分を警《いまし》めてゐた。過ぐ世をも顧りみない、行く末も気にかけない。ただ有り合ふ世だけに当嵌《あては》めて、その場その場に身を生すことを考へて来た――事実、恋ふべき過去でも無い、信じられる未来とも思へなかつた、業風《ごうふう》の吹くままに遊び散らし、書き散らし、生き散らして来たと思へる生涯が、なぜか今宵は警めなしに顧りみられる。そして、そろそろ、まんさんたる自分の生涯の中に一筋|貫《つらぬ》くものがあるのに気がつき出した。これを、今すこし仔細《しさい》に追及し、検討して見るとしても、あながち卑怯未練と自己嫌悪に陥るにもあたるまい――否、何かしらず、却《かえっ》て特別に自分に与へられた道の究明といふやうなけ高い、気持さへ感じられもして来るのだつた。
秋成は湯鑵の蓋《ふた》をとつて見た。煮くたらかされて疲れ果て、液体のまん中を脊《せ》のやうに盛り上げて呻吟《しんぎん》してゐる湯を覗《のぞ》いて眉《まゆ》を皺《しわ》めた。物思ひに耽《ふけ》つて居るうちに茶の湯が煮え過ぎて仕舞《しま》つてゐた。秋成は、立ち上つて覚束《おぼつか》ない眼で斜めに足の踏み先きを見定めながら簷下《のきした》へ湯鑵の水を替へに行つた。疝腫で重い腰が、彼にびつこを引かせた。
燠《おき》のたつた火を、その儘《まま》にして彼は、湯鑵を再びその上へかけた。彼はもう茶を入れて飲む方の興味は失つて居たが、水が湯になるあの過程の微妙な音のひびきは続けて置きたかつた。突き詰めて行くこころを程よく牽制《けんせい》してなめらかに流して呉《く》れる伴奏であるやうに思へた。彼は耳を傾けたが、風はもう吹きやんで、外はぴりぴりする寒さが、寺の堂も山門も林をも、腰から下だけ痺《しび》らせつつあるのを感じた==京は薄情な寒さぢや。と彼はここでひと言、ひとりごとをいつた。彼は元通りきちんと坐《すわ》つて、考への緒口《いとぐち》に前の考への糸尻《いとじり》を結びつけた。――愛しても得られず、憎んでも得られず、勝負によつて得られず、ただ物事を突きつめて行く執念のねばりにだけ、その欲情は充《み》たされたのだつた。だが、この世の中にそれほど打ち込んで行けるほどのものがあるだらうか。いくら執念のねばりを愛する欲情であるといつて、むやみに物を追ひ、獅噛《しが》みついて行くわけには行かなかつた。魅力といふものが必要だつた。そして魅力の強いものほど飽きが来た。飽きが来なければ、むかうが変つた。
生母には四つの歳に死に訣《わか》れた。曾根崎の茶屋の娘だつた。場所柄美しくない女ではなかつたらうけれども、誰も父の名を明かして呉《く》れないとこ
前へ
次へ
全5ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング