ろから考へると、いづれは公《おおやけ》にし難い関係から生れた自分だらう。物ごころついてそこに父と呼び母と呼ぶところの人があるのに気がつく時分にはもう堂島の上田の家に引取られて居た。上田氏が自分の何に当るか訊《き》く気はなかつた。訊けば嘘をつかれるだらうと判つてゐた。同じ嘘なら現在むやみに可愛がつて呉れる上田夫妻を、父と呼び、母と呼ぶ嘘の方が、堪へられた。彼の数奇《すうき》な運命は幼年の彼に、こんなませた考へをもたせた。
二度目の母である上田の妻も自分を愛したが二三年を数へただけで死んだ。母といふものはたいがい早く死ぬものと、こども心にきめて何とも思はなかつた。ところが、上田氏の迎へた後妻で、自分に三度目の母になる女は、長生きした。彼女は秋成が六十近い年齢になるまで生きて妻と一しよに自分が引脊負《ひきせお》つて歩いた女である。その女も母として自分を可愛がつた。それで秋成の若いうち、世間はあなたはふしあはせのやうでも仕合せな方、二人もおふくろさんを代へて、しかもどのまま母もまま母のやうでない方、と言つた。だが、今考へるのにそれもよしあしだ。まま母が、まま母らしくむごたらしくして呉《く》れたら、一筋に生みの母への追慕は透《とお》つて生涯の一念は散らされずに形を整へてゐて呉れたかも知れない。それをなまじひ、わきからさし湯のやうに二人までの愛を割り込ませ、けつきよく自分の生母へのあこがれを生ぬるいものにして仕舞《しま》つた。をかしなことは自分が母親をなつかしむとき、屹度《きっと》、三人の女の面影が胸に浮び、若い生母の想像の俤《おもかげ》から老いた最後の養母まで、ずらりと面影を並べて、自分の思ひ出を独占しようと競ひ合ふ。自分は遠慮して、そのどれへも追慕のこころを専《もっぱ》らにするのを控へるのだつた。
かくべつすぐれたところの無い養母たちにも心から頭を下げたことが二度あつた。一度は、後のまま母の生きて居るうち、自分の五十五の年であつた。中年で習つて、折角はやりかけた医術も、過労のため押し切れなく成り、それで儲《もう》けて建てた、かなり立派な家も人手に渡し、田舎《いなか》へ引込んだ年であつた。そのときは妻の母も一緒にして仕舞つたので、狭い田舎の家に二人の老婆がむさくるしく、ごたごた住まねばならなかつた。もとは大阪堂島の、相当戸前も張つて居る商家のお家はんであつたのを、秋成がその店を引受けてから急に左り前になつたその衰運をまともにつきあひ、わびしいめに堪へながら、秋成がやつとありついた医業にいくらか栄えが来て、楽隠居《らくいんきょ》にして貰《もら》つたところで、また、がたんと貧乏|住居《ずまい》に堕《お》ちたのだつた。だから秋成にしてみれば、まま母に、何とも気の毒でしやうが無かつた。そこで、五十五の男が母の前に額《ぬか》をつけ、不孝、この上なしと、詫《わ》びたのだつた。すると、まま母は==何としやうもない事だ。と返事して呉《く》れた。ものを諦める、といふほど積極的に気を働かす女でなく、いつもその儘《まま》、その儘のところに自分を当て嵌《は》めた生活を、ひとりでにするたちの女だつた。けれども、この母のこの返事は、可成《かな》り秋成に世の中を住みよくさして呉《く》れた。この母と妻の母と、もう五十に手のとゞきさうな妻と、三人の老婆が、老鶏《ろうけい》のやうに無意識に連れ立つて、長柄の川べりへ薺《なずな》など摘みに行つた。
かういふ気易《きやす》さを見て、暮しの方に安心した自分は、例の追ひ求むるこころを、歴史の上の不思議、古語の魅力へいよいよ専《もっぱ》らに注ぐのだつた。
養家の父母の甘いをよいことにして、秋成はその青年期を遊蕩《ゆうとう》に暮した。この点に於て普通の大阪の多少富裕な家の遊び好きのぼんちに異らなかつた。当時流行の気質《かたぎ》本を読み、狭斜《きょうしゃ》の巷《ちまた》にさすらひ、すまふ、芝居の見物に身を入れたはもとよりである。そこに俳諧《はいかい》の余技があり、気質本二篇を書いては居るが、これは古今を通じて多くの遊蕩児中には、ままある文学|癖《へき》の遺物としてのこつたに過ぎない。ところが、三十五歳、彼の遊蕩生活が終りを告げるころ、彼は突如として雨月物語を書いた。この物語によつて彼の和漢の文学に対する通暁さ加減は、尋常一様の文学青年の造詣《ぞうけい》ではない。押しも押されもせぬ文豪のおもかげがある。遊蕩青年からすぐこの文豪の風格を備《そな》へた著書を生んだその間の系統の不明なのに、他の国文学者たちは一致して不思議がつて居る。殊《こと》に彼自身、二十余歳まで眼に国語を知らず、郷党《きょうとう》に笑はれたなどと韜晦《とうかい》して人に語つたのが、他人の日記にもしるされてあるので、一層この間の彼の文学的内容生活は、他人の不思議さを増させた。彼はこの時までに俳諧では高井|凡圭《きけい》、儒学は五井蘭州《ごいらんしゅう》、その他|都賀庭鐘《つがていしょう》、建部綾足《たけべあやたり》、といふやうな学者で物語本の作者である人々についても、すこしは教へを受けたが、大たいはその造詣を自分で培《つちか》つた。それも強《し》ひて精励努力したといふわけでは無い。幼年から数奇《すうき》な運命は彼の本来の性質の真情を求めるこころを曲げゆがめ、神秘的な美欲や愛欲や智識欲の追躡《ついじょう》といふやうな方面へ、彼の強鞣な精神力を追ひ込み、その推進力によつて知らぬ間に、彼の和漢の学に対する蘊蓄《うんちく》は深められてゐた。彼の造詣の深さを証拠立てる事は彼が三十五歳雨月物語を成すすこし前、賀茂真淵《かものまぶち》直系の国学者で幕府旗本の士である加藤|宇万伎《うまき》に贄《し》を執《と》つたが、この師は彼の一生のうちで、一番敬崇を運び、この師の歿《ぼっ》するまで十一年間彼は、この師に親しみを続けて来たほどである。この宇万伎は、彼が入門するとたちまち弟子よりもむしろ友人、あるひは客員の待遇をもつて、彼に臨み、死ぬときは、彼を尋常一様の国学者でないとして学問上の後事をさへ彼に托《たく》した。そして、この間に彼の名もそろそろ世間に聞え始めてゐた。しかし、それほどの師にすら、秋成の現実の対照に向つては、いつも絶対の感情の流露を許さぬ習癖が、うそ寒い疑心をもち==師のいひし事にもしられぬ事どもあつて、と結局は自力に帰り、独窓のもとでこそ却《かえっ》て研究は徹底すると独学|孤陋《ころう》の徳を讃美して居る。
かういふやうに、人に屈せず、人を信ぜぬ彼であつたが、前の養母にも一度|衷心《ちゅうしん》感謝を披瀝《ひれき》したといふのは、享和《きょうわ》元年彼は六十八歳になつたが、この年齢は大阪の歌島稲荷社の神が彼に与へた寿命の尽きる歳であつた。養母は秋成が四つの歳に疱瘡《ほうそう》を病み、その時死ぬべき筈《はず》の命を歌島稲荷に祈つて、彼が六十八歳まで生き延びる時を期して自分の命を召します代りに、幼い命を救はれよと祈つたのであつた。その六十八歳になつても彼は死なず、祈つた養母自身がそれから二年目に死んだのが、自分の身替りのやうに有がたく思はれ、死骸《しがい》に向つてしみじみ頭を下げたのだつた。それにしてもそれから今日までまた余りに生き延びた。やつぱり自分のしんにうづいてゐるまた何物かを追ひ求める執念が自分の命を死なさないのか。この妄執の念の去らぬうちは、自分はいやでもこの世に生かせられるのではあるまいか、それは、辛《つら》く怖ろしいことのやうに思はれる。また、楽しい心丈夫な気持もする。人間にある迷ひといふものは、寿命に対してなかなか味のある働きをしてゐるやうにも考へられる。
疑念ふかい彼はまた、若い頃からどの女を見ても醜い種が果肉の奥に隠されてゐて、自分の興を醒《さま》した。男を誘惑して子を生んでやらう。産んだ子を人質に、男を永く自分の便りにさしてやらう、生んだその子に向つては威張《いば》つて自分を扶助《ふじょ》さしてやらう――かういふいはれの種を持たない女は一人も無からう。もつとも女自身が必ずしもさういふ魂胆を一人残らず知つてゐて男に働きかけるわけではない。たいがいの女は何にも知らずに無心に立居振舞ふのである。だがその無心の振舞ひのなかに、もう、これだけの種が仕込まれてゐるのだ。女が罪が深いとほとけ[#「ほとけ」に傍点]も云はれたが、およそ、こんなところをさしたのではないか。自分が遇《あ》つた女にはみなこの罠《わな》があつて危くてうつとりできなかつた。また、しやうばい女などはそれとはまるで違ふ種だが、やつぱりかならず持つて居る。男を迷はさず男の魂を飛さずに惚《ほ》れられる女は一人も無かつた。惚れればきつと男の性根を抜き、男を腑抜《ふぬ》けにして木偶《でく》人形のやうに扱はうとする。男に自分の性根をしつかり持ち据ゑさせ乍《なが》ら恍惚《こうこつ》たる気持にさして呉《く》れる女は一人も無かつた。さういふ女のことごとくが、男の性根のあるうちは、まるでそれをさかなに骨があるやうに気にしてむしりにかかる。骨がきれいにむしられて仕舞《しま》ふと安心して喰べにかかる。
酒のやうに酔はせる女はたくさんある。茶のやうに酔はせる女は一人も無い。栄西禅師《ようさいぜんじ》の喫茶養生記の一節を思ひ出す。「茶を飲んで一夜眠らぬも、明日身不[#レ]苦」と。一夜眠らざるも明日身苦しからぬ恋があらうか……そんなわけから、二十九のとき貰《もら》つた妻といふものにも何の期待も持たなかつた。年頃になつたから人並に身を固めるといふ世間並に従つたまでだ。名をお玉といつて自分とは八つ違ひだつた。大阪で育つた女だが、生れは京都の百姓の娘だから辛抱は強かつた。踏みつければ踏みつけられたまま伸びて行くといふたちの女だつた。それを幸《さいわ》ひ、こちらもまだ遊び盛りの歳だものだから、家を外に、俳諧《はいかい》、戯作《げさく》者仲間のつきあひにうつつを抜した。たまにうちへかへつてみると、お玉の野暮《やぼ》さ加減が気に触つた。自分と同じ病気なのも癪《しゃく》に触つた。遊びは三十を過ぎても慢性になつて続いて行くうちに、三十七の歳に養父は歿《な》くなる。紙屋の店を継いではじめて商売を手がけてみた。慣れぬこととてうまくゆく道理はない。その弱り目に翌年|逢《あ》つた店の火事、次の一年間は何とか店を立て直さうとさまざまに肝胆を砕いてみたが駄目《だめ》だつた。そしておよそ商家に育つて自分くらゐ商売に不向きな性質の人間はないと悟つた。何故《なぜ》といふに、みすみす原価より高く利徳といふものを加へて品物を、知らん顔して人に売るといふことが、どうも気がひけてならなかつたからである。商品に手数料の利徳といふものをつけるのは当りまへであるには違ひなからうけれど、性分だ、その利徳はただ儲《もう》けの為に人に押し付けるやうで、客に価値を訊《き》かれても、さそくに大きい声では返事も出来なかつた。こんな風だから三年目には家を潰《つぶ》して田舎落《いなかお》ちした。そしてあるものはたいがい食ひ尽して仕舞《しま》つたから身過ぎのため何か職業を選ばなければならなくなつた。年も四十に達したので、もうぐづぐづしては居られない、まあ、知識階級の人間には入り易《やす》さうに考へられた医学で身を立てることに決心した。
当時日本の医学界には、関東では望月三英、関西では吉益東洞《よしますとうどう》、といふやうな名医が出て、共に古方《こほう》の復興を唱へ、実技も大《おおい》に革《あらたま》り、この両派の秀才が刀圭《とうけい》を司《つかさど》る要所々々へ配置されたが、一般にはまだ、行き亙《わた》らない。大阪辺の町医村医は口だけは聞き覚えた東洞が唱道の「万病一毒」といふモツトーを喋舌《しゃべ》るが、実技は在来の世間医だつた。三年間つぶさに修学した秋成は、安永四年再び大阪へ戻つていよいよ医術開業。そのときにかういふことを決心した。「医者はどうせ中年の俄仕込《にわかじこ》みだから下手で人がよう用ひまい。だから、足まめにして親切で売ることにしよう。しかし、いかに俗に堕
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