一番確かだつた。
 南禅寺の本部で経行が始つた。その声を聞きながら、彼は死んだ人の名を頭の中で並べた。年代順に繰つて行つて五年前、享和元年に友だちの小沢蘆庵が七十九歳で死に、仕事|敵《がたき》の本居宣長が七十三で死んでゐるところまで来ると彼は微笑してつぶやいた――生気地《いくじ》なし奴等《めら》だ。
 十二歳年下で、六十歳の太田|南畝《なんぽ》がまだ矍鑠《かくしゃく》としてゐるのが気になつた。この男には、とても生き越せさうにも思へなかつた。世の中を狂歌にかくれて、自恣《じし》して居るこの悧恰《りこう》な幕府の小官吏は、秋成に対しては、真面目《まじめ》な思ひやり深い眼でときどき見た。それで彼も、生き負けるにしろさう口惜《くや》しい念は起さなかつた。
 茶瓶に湯が注がれて、名茶『一の森』の上※[#「くさかんむり/(月+曷)」、第3水準1−91−26]《じょうろう》の媚《こ》びのやうな淡いいろ気のある香気が立ちのぼつた。彼は茶瓶をむづと掴《つか》んだ。茶瓶の口へ彼の尖《と》がつた内曲りの鼻を突込んだ。茶の産地の信楽《しがらき》の里の春のあけぼのの景色も彼の眼底に浮んだ。
 その翌、文化四年七
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