対論文、戯作、和歌、紀行文、随筆等、生涯の執筆は実に多岐《たき》に渉《わた》つてゐる。その著書は、煎茶道《せんちゃどう》の祖述、漢印の考証にまで及んでゐる。しかし、これ等《ら》の仕事は、気ままできれぎれで、物質生活を恵む筈《はず》なく、学才は人に脅威を与へ乍《なが》ら、生活はだんだん孤貧に陥つて行つた。
養母と姑《しゅうとめ》が死んだ翌年の寛政五年、剃髪《ていはつ》した妻瑚※[#「王+連」、第3水準1−88−24]を携へて京都へ上つたときは、養母の残りものなど売り払つて、金百七両持つてゐたといふがそれもまたたく間に無くなり、それから書店の頼む僅《わず》かばかりの古書の抜釈《ばっしゃく》ものかなにかをして、十両十五両の礼を取つて暮してゐたが、ずつと晩年は数奇《すき》者が依頼する秋成自著の中でも有名な雨月などの謄写《とうしゃ》をしてその報酬で乏《とぼ》しく暮して居た。しかし、それも眼がだんだん悪くなつて出来なくなり、彼自身も『胆大小心録』で率直《そっちょく》に述べてゐる通り、「麦くたり、やき米の湯のんだりして、をかしからぬ命を生きる――」状態になつた。
妻の瑚※[#「王+連」、第3水準
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