さそくに大きい声では返事も出来なかつた。こんな風だから三年目には家を潰《つぶ》して田舎落《いなかお》ちした。そしてあるものはたいがい食ひ尽して仕舞《しま》つたから身過ぎのため何か職業を選ばなければならなくなつた。年も四十に達したので、もうぐづぐづしては居られない、まあ、知識階級の人間には入り易《やす》さうに考へられた医学で身を立てることに決心した。
当時日本の医学界には、関東では望月三英、関西では吉益東洞《よしますとうどう》、といふやうな名医が出て、共に古方《こほう》の復興を唱へ、実技も大《おおい》に革《あらたま》り、この両派の秀才が刀圭《とうけい》を司《つかさど》る要所々々へ配置されたが、一般にはまだ、行き亙《わた》らない。大阪辺の町医村医は口だけは聞き覚えた東洞が唱道の「万病一毒」といふモツトーを喋舌《しゃべ》るが、実技は在来の世間医だつた。三年間つぶさに修学した秋成は、安永四年再び大阪へ戻つていよいよ医術開業。そのときにかういふことを決心した。「医者はどうせ中年の俄仕込《にわかじこ》みだから下手で人がよう用ひまい。だから、足まめにして親切で売ることにしよう。しかし、いかに俗に堕
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