ころで押へようとすれば身体に籠《こも》る。雨晴れて月|朦朧《おぼろ》の夜にちび筆の軸を伝つてのみ、そのじくじくした欲情のしたたりを紙にとどめ得た。『雨月』『春雨《はるさめ》』の二草紙はいはばその欲情の血膿《ちうみ》を拭《ぬぐ》つたあとの故紙《こし》だ。しかし肉漿《にくしょう》や膿血は拭ひ得てもその欲情の難《くるし》みのしんは残つてゐる。この老いにしてなほ触るれば物を貪《むさぼ》り恋ふるこころのたちまち鎌首《かまくび》をもたげて来るのに驚かれた。そして、貪り恋ふる目標物の縹眇《ひょうびょう》として捕捉し難いのにも自分|乍《なが》ら驚かれた。
それは正体が無くて、不思議なしわざだけする妖怪によく似てゐた。霽《は》れかかつた朝霧の中に冴《さ》えだけ見せてゐる色の無い虹《にじ》のやうにも覗《のぞ》かれた。
老いを忘れる為に思ひ出に耽《ふけ》るとは卑怯《ひきょう》な振舞ひとして、秋成はかねがね自分を警《いまし》めてゐた。過ぐ世をも顧りみない、行く末も気にかけない。ただ有り合ふ世だけに当嵌《あては》めて、その場その場に身を生すことを考へて来た――事実、恋ふべき過去でも無い、信じられる未来とも思
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