心構へであつた。それで、茶具の数も、定めの数の二十具を減して十六にし、また、十二具にし、やぶれた都籠から取出したのはぎりぎり間に合せの茶瓶、茶盞、茶罌《ちゃつぼ》ぐらゐの数に過ぎなかつた。けれど、煎茶の態度は正しかつた。生活は老貧のくづすままに任せたけれど、そのなかにただ一筋、格をくづさぬものを、踏みとどめ残して置きたいといふのが、老人の最後の自尊心だつた。
彼は、湯鑵《ゆがま》に新しく水をいれて来て火鉢に炭をつぎ添へてかけた。彼は水にやかましかつた。近所の井戸のものには腥気《せいき》があるとか、鹹気《かんき》があるとかいつて用ひなかつた。わざわざ遠くの一条の上の井戸から人を雇つて甕《かめ》に汲《く》みいれさせた。
京摂の間では、宇治の橋本の川水が絶品だと云つて、身体のまめなうちは、水筒を肩にかけ一日仕事でよく汲みに行つた。それらの水を貯へた甕は夕方から庭に持ち出して蓋《ふた》をとり、紗帛で甕の口を覆ひ、夜天に晒《さら》した。かうすると、水は星露の気を承《う》けて、液体中の英霊を散らさないと、彼は信じて居た。何でも事物の精髄を味《あじわ》ふことには、彼はどんらんな嗜慾《しよく》を持つて居た。
彼はゆつたりと坐《すわ》つて作法のやうに受汚《ちゃきん》で茶盞を拭《ぬぐ》ひ、茶瓶の蓋を開けて中を吟味し、分茶盒《ちゃいれ》と茶罌を膝《ひざ》元に引付けた。そして湯の沸くのを待つた。彼は幼時、いのちにかかはるほどの疱瘡《ほうそう》をして、右の手の中指は小指ほどに短かつた。左の手の人差指も短かつた。さういふ不具の手を慣して器物を扱つてゐるので、一応は何気なく見えるが、よく見ると手首は器物に獅噛《しが》みついてゐた。まるで餓鬼《がき》の執著ぢや。彼はわざといやなものを自分に見せつけるいこぢな習癖がここに起るときに、その手首を眼の前でひねくつて、ひとりくつくつと笑つた。さういふ手で筆を執《と》るのだから、どうせろくな字を書けつこないと自分を貶《けな》し切り、人がどんなに出来|栄《ば》えを褒《ほ》めても決して受け容れなかつた。
火鉢にかけた湯鑵の湯水が、やうやく暖まつて来て、微々の音を立てるやうになつた。秋成は、膝に手を置いて、そより、とも動かなかつた。ただ湯の沸くのを待つだけが望みであるこの森厳で気易《きやす》い時間に身を任せた。木枯《こがらし》が小屋を横に掠《かす》め、また真上から吹き圧《おさ》へる重圧を、老人の乾いて汚斑《しみ》の多い皮膚に感じてゐた。
永い年月|工夫《くふう》したかういふ境地に応ずべき気の持ちやうが自然と脱却して、いまは努めなくても彼の形に備《そなわ》つてゐた。それは「静にして寂しからず」といふこつ[#「こつ」に傍点]であつた。
湯が沸いて「四辺泉の湧《わ》くが如く」「珠《たま》を連ぬるが如く」になつた。もうすこしすると「騰波鼓浪《とうはころう》の節に入り、ここに至つて水の性消え即《すなわ》ち茶を煮べき」湯候《ゆごろ》なのである。秋成には期待の気持が起つて熱いものが身体を伝《つたわ》つて胸につき上げて来るのを覚えた。それが茶に対する風雅な熱意ばかりであるのかと思ふと、さうではなく、それに芽生《めば》えたいろいろな俗情が頭を擡《もた》げて来るのであつた。
青年時代の俳諧《はいかい》三昧《ざんまい》、それをもしこの年まで続けて居たとすれば、今日の淡々如きにかうまで威張《いば》らして置くものではない。淡々|奴《め》根が材木屋のむすこだけあつて、商才を弟子集めの上に働《はたらか》して、門下三千と称してゐる。これがまづ、いまいましい。四十の手習ひで始めた国学もわれながら学問の性はいいのだが、とにかく闘争に気を取られ、まとまつた研究をして置かなかつたのが次に口惜《くや》しい。俺を、学問に私すると云つた江戸の村田|春海《はるみ》、古学を鼻にかける伊勢の本居宣長《もとおりのりなが》、いづれも敵として好敵ではなかつた。筆論をしても負けさうになればいつでも向ふを向いて仕舞《しま》ふぬらくらした気色の悪い敵であつた。これに向ふにはつい嘲笑《ちょうしょう》や皮肉が先きに立つので世間からは、あらぬ心事を疑はれもした。人間性の自然から、独創力から、純粋のかん[#「かん」に傍点]から、物事の筋目を見つけて行かうとする自分のやり方がいかに旧套《きゅうとう》に捉《とら》はれ、衒学《げんがく》にまなこが眩《くら》んでゐる世間に容れられないかを、ことごとく悟つた。
和歌については、小沢蘆庵《おざわろあん》のことが胸に浮んだ。一方では、堂上風の口たるい小細工歌が流行《はや》り、一方では古学派のわざとらしい万葉調の真似手の多いなかに、敢然《かんぜん》立つて常情平述主義を唱へ「ただ言歌《ことうた》」の旗印を高く掲げた才一方の年上の老友がうらやまれた。
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