つて壁越しに云つた。あとは笑ひにまぎらした。


 紙袋からぽろぽろと焼米を鉢にあけて、秋成はそれに湯を注いだ。そこにあつた安永五年刊の雨月《うげつ》物語を取つて鉢の蓋《ふた》にした。この奇怪に優婉《ゆうえん》な物語は、彼が明和五年三十五歳のときに書いたものである。書いてから本になるまで八年の月日がかかつてゐる。推敲《すいこう》に推敲を重ねた上、出版にもさうたう苦労が籠《こも》つてゐた。顧みると国文学者の分子の方が勝つてしまつた彼の生涯の中で、却《かえっ》て生れつき豊《ゆたか》であつたと思はれる、物語作者の伎倆《ぎりょう》を現したのは僅《わず》かに過ぎない。その僅かの著作のうちで、この冊子は代表作であるだけに他の著作は散逸させてしまつても、これには愛惜の念が残り、晩年になるほど手もとに引つけて置いた。それかと云つてさほど大事にして仕舞《しま》つて置くといふこともなかつた。運命に馬鹿《ばか》にされ、引ずり廻されたやうな一生の中で、自分の好みや天分が何になつたか。なまじそれがあつた為に毛をさか※[#「てへん+宛」、第3水準1−84−80]《も》ぎにされるやうなくるしい目にあつたと思へば、感興に殉じた小伎倆《こうで》立てが、自分ながらいまいましく、この冊子を見る度にをこな自分を版木に刷り、恥ぢづら掻《か》いて居るやうで、踏まば踏め、蹴《け》らば蹴れ、と手から抛《ほう》つて置くとこまかせ、そこら畳の上に捨てても置いた。この冊子が世間で評判のよかつたことにも何といふことなしに反感が持てた。要するに愛憎二つながらかかつてゐる冊子であるため、ついそばに置いて居るといふのが本当のところかも知れない。土瓶敷《どびんしき》代りにもたびたび使つた。鍋《なべ》や土瓶の尻《しり》しみが表紙や裏に残月形に重つて染みついてゐた。
 湯気で裏表紙が丸くしめり脹《ふく》らんだ蓋《ふた》の本をわきへはねて、鉢《はち》の中にほどよく膨《ふく》れた焼米を小さい飯茶椀《めしぢゃわん》に取分け、白湯《さゆ》をかけて生味噌《なまみそ》を菜《さい》にしながら、秋成はさつさと夕飯をしまつた。身体は大きくないが、骨組はがつちりしてゐて、顎《あご》や頬骨《ほおぼね》の張つてゐるあばた面《づら》の老人が、老いさらばひ、夕闇に一人で飯を喰べて居る姿はさびしかつた。とぼけたやうな眼と眼が、人並より間を置いて顔についてゐるのが、蛙《かえる》のやうに見える。
 箸《はし》を箸箱に仕舞《しま》ひながら、彼はおおさうぢやと気がついて、部屋の隅からざるで伏せてあつた小鍋を持つて来て箸を突込み、まづさうに食ひ始めた。鍋にはどぜうが白つぽく煮てあつた。彼はこれを喰べるとき、神経質に窓や裏口を睨《にら》んだ。五十七歳で左眼をつぶして仕舞ひ、六十五歳でその左の眼がいくらか治つたかと思ふと、今度は右の眼が見えなくなつた。それから死を待つ今日まで眼の苦労は絶えなかつた。
 どぜうがよろしいと勧める人があるので食ひ続けて居るのを、一度わからずやの僧侶に見つかつて、人間は板歯で野菜|穀《こく》もつを食ふやうに出来てゐる。どぜうなど食ふは殺生《せっしょう》のみか理に外《はず》れてゐる。とたしなめられ、その場は養生喰ひだと、抗弁はしたものの、その後は、食ふたびに気がさした。死ぬのに眼などはもうどうでもよろしいではないかと思ひつつも養生はやめられなかつた。
 小さいとき驚癇でしばしばなやまされながらも、神経の強い彼はときどき妄想性にかかつた。狐狸《こり》の仕業はかならずあるものと信じて居た。内心|忸怩《じくじ》としながらかうやつてどぜうの骨をしやぶつてゐるときには、あの忠告した坊主がほんたうは自分も食ひ度《た》いのだがそれが食へぬので、あんな嫌がらせをいつたので、それを押して食つて居る自分を嗅《か》ぎつけたら、うらやましくなつて、何か化性にでもなつて現れて来るやうな気がした。事実その姿は変に薄つぺらな影絵となつて障子《しょうじ》の紙から抜けたり吸ひ込まれたりするのを彼は感じた。すると彼はいつそ大胆になつて、わざと大ぴらにどぜうを食つて見せるのだつた。それで影絵が消えて仕舞ふと、彼は勝利を感じて箸をしまつた。南禅寺の本堂で、卸戸《おろしど》をおろす音がとどろいた。その間に帚《ほうき》で掃くやうな木枯《こがらし》の音が北や西に聞えた。彼は行燈《あんどん》をつけてから、煎茶《せんちゃ》の道具を取り出した。
 彼は後世、煎茶道の中興の祖と仰がれるだけにこの齢になつても、この道には執著を持つた。むしろ他の道楽を一つ一つ切り捨てて行つて、たつた一つを捨て切れず、残した好みであるだけに全身的なものがあつた。「茶は高貴の人に応接するが如し、烹点《ほうてん》共に法を濫《みだ》れば其《その》悔かへるべからず」これが、彼の茶に対するときの
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