自分に、若《も》し、もう少し和歌の志《こころざし》が篤《あつ》く、愚直の性分があつたら、あの流儀は自分がやりさうなことであつた。その「ただ言歌」の心要として蘆庵の詠《よ》んだ、
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言の葉は人の心の声なれば
思ひを述ぶるほかなかりけり。
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といふ歌などは「雨降るわ、傘《かさ》持てけ」のたぐひで歌とも何とも云ひやうのないものだが、なぜかそれが、歌を詠まうとするときには、必ず先きに念頭に浮んで詠みはづまうとする言葉の出頭《でがしら》を抑へ、秋成をいまいましがらせた。
 野暮な常識臭いものを固く執《と》つて動かない蘆庵の頑迷|不遜《ふそん》が彼の感興を醒《さま》した。そしてまた歌はいくらやつても蘆庵が先きに掻《か》き廻して居るといふ感じが強かつた。蘆庵といふ男は始め天下一の剣士になるつもりで、それが適《かな》ひさうもなくなつたので、歌に変つたのだといふほどあつて、とても一徹なところがあり、四十年近くも地虫のやうに岡崎に棲《す》みつき、二本の庭の松を相手に、歌のことばかり考へて居た。自分がはじめて彼を訪ねたときには、もてなしだと云つて、武骨な腕で、琴をひいて聴かせたものだ。そのまじめくさつた歌にはをかしくて堪へられなかつたが、無理に我慢して歌詠み仲間の礼儀に歌の遣《や》り取りをしたものだつた。だが深切気のあるおやぢで、自分ののらくらして居るのを見兼《みか》ねて、せめて弟子取りでもしろと、勧めて呉《く》れた。自分はおもふさまなことを云つてそれをはねつけ、あの律儀なおやぢに、溜息《ためいき》を吐《つ》かせた。
 大雅《たいが》、応挙《おうきょ》、月渓《げっけい》などといふ画人が、急に世にときめき出したのも、癪《しゃく》に触つた。彼等の貧乏時代は、茶屋の掛行燈《かけあんどん》など引受け、がむしやらに雑用《ぞうよう》稼ぎをして、見られたざまではなかつたのを、この頃はすつかり高くとまり、方外の画料を貪《むさぼ》る。中にも月渓とは、智恩院の前の住ひでは、すぐ近所合ひであり、東洞院では同じ長屋住ひで味噌《みそ》醤油《しょうゆ》の借り貸し、妻の瑚※[#「王+連」、第3水準1−88−24]尼が飲める口であつたので、彼はよい飲み友達にして湯豆腐づくめの酒盛りなど、度々したものだつた。その頃からこの画描きは、食ひ道楽、飲み道楽、その上にもう一つの道楽もあつたのを、出世したから堪《たま》らない。すつかり身体をこはし、せん頃久しぶりに見舞つたら、樽詰《たるづ》めの不如法のさらし者を見るやうに衰弱して居た。しかも、それで居ながら酒の肴《さかな》は豆腐か、つくしにかぎるなどと、まだ食気のことを云つて居た。岸駒が俗慾の奢《おご》りを極め、贅沢《ぜいたく》な普請をして同功館などと大そうもない名をつけたのも癪に触つた。絵は、書典と功が同じである、それで画屋は同功館であるといふいはれださうだ。変なつけ上り方をすればするものだ。
 かういふ不平を続けて込み上らせて来ると秋成は、骨格の太さに似合はず少量な血が程よく身体を循環して、ぽつと心に春めくものを覚えるのだつた。眼瞼《がんけん》がぴくぴく痙攣《けいれん》するのも一つの張合ひになつて来た。湯鑵の湯はすつかり沸き切つて、むやみにぐらぐらひつくりかへつてゐるが彼はかまはなかつた。それよりもこの場合、肉体的に何か鋭い刺戟《しげき》を受けて興奮した、いまの気持を照応せしめたかつた。そこで湯鑵の熱い膚《はだ》に指の先きを突きつけた。痛熱い触覚が、やや痺《しび》れてゐる左の手の指先きに噛《か》みつくと、いはうやう無い快感が興奮した神経と咄嗟《とっさ》に結びつき、身体中がせいせいと明るくされるやうである。彼はこの分ならまだ五六年は生き堪へられるぞと、心中で呼ぶのだつた。彼は左の手の中で一本湯鑵の胴に触らないで痺れたままの感覚で取残されてゐる例の疱瘡《ほうそう》で短くなつてゐた人差指をも、公平にこの快味に浴させようと、他の四本の指を握り除け、片輪な指だけ、湯鑵の胴にぢりりと押つけた。甘美な疼痛《とうつう》がこの指をも見舞つた。いつそこの指を火にくべて、われとわが生命の焼ける臭ひを嗅《か》いだらどれほどこころゆくことだらう。
 気持が豪爽《ごうそう》になつて来るとまだまだ永く生きられさうな気がし出した。むしろ、これからだといふ気さへし出した。==人間はいつまでたつても十七八の気持は残つてゐる、と若いたいこ[#「たいこ」に傍点]持ち茶人の宗了といふ男が、自分に体験もないくせに、誰に聴いたものか、かう云つたのを覚えて居る。その若いたいこ[#「たいこ」に傍点]持ち茶人の宗了だが、彼が茶番をして、千鳥の役を引受けて酒席へ出たことがあつた。美男のうへ、念入りの化粧をしたので、芸子女中まで見惚《みと》れるくら
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