ゐだつた。ところがその顔の額《ひたい》へもつていつて彼は「千鳥」と太文字で書き入れた。それから右の頬《ほお》づらへ師匠の宗佐の名を鑑定の印の形に似せて朱で書き入れた。この趣向は飛抜けて奇抜だつたので、たちまち京阪《けいはん》の遊び仲間の評判になつた。当時その酒席に居た秋成は、宗了のこの働きを眼の前に見て、これがほんたうの若さから来る即興といふものではないかと感じたことであつた。どう思ひ切つても秋成自身には、この芸は出来さうもなかつた。宗了の美男と、若さ、がうらやまれた。
 さて、秋成自身ふり返つて見るのに、自分の肉体には若いうちから老いが蝕《むしば》んでゐて、思ひ切つた若さも燃えさからなかつた。だが、わが身のうちに蝕《むしば》んだこの若い頃からの老いが、その代り自分のなかにある不思議な情緒を、この七十の齢まで包みかばひ保たしてゐるのかも知れない。うつし世のうつしごとの上では満足出来ず、さればとて死を越えては、いよいよ便りを得さうも無い欲情――わづかにそれを紙筆の上に夢にのみ描いて、そのあとを形にとどめて来た。それは現実の自分の上では、身体でつきとめようとすれば、こころに遁《のが》れ、こころで押へようとすれば身体に籠《こも》る。雨晴れて月|朦朧《おぼろ》の夜にちび筆の軸を伝つてのみ、そのじくじくした欲情のしたたりを紙にとどめ得た。『雨月』『春雨《はるさめ》』の二草紙はいはばその欲情の血膿《ちうみ》を拭《ぬぐ》つたあとの故紙《こし》だ。しかし肉漿《にくしょう》や膿血は拭ひ得てもその欲情の難《くるし》みのしんは残つてゐる。この老いにしてなほ触るれば物を貪《むさぼ》り恋ふるこころのたちまち鎌首《かまくび》をもたげて来るのに驚かれた。そして、貪り恋ふる目標物の縹眇《ひょうびょう》として捕捉し難いのにも自分|乍《なが》ら驚かれた。
 それは正体が無くて、不思議なしわざだけする妖怪によく似てゐた。霽《は》れかかつた朝霧の中に冴《さ》えだけ見せてゐる色の無い虹《にじ》のやうにも覗《のぞ》かれた。
 老いを忘れる為に思ひ出に耽《ふけ》るとは卑怯《ひきょう》な振舞ひとして、秋成はかねがね自分を警《いまし》めてゐた。過ぐ世をも顧りみない、行く末も気にかけない。ただ有り合ふ世だけに当嵌《あては》めて、その場その場に身を生すことを考へて来た――事実、恋ふべき過去でも無い、信じられる未来とも思へなかつた、業風《ごうふう》の吹くままに遊び散らし、書き散らし、生き散らして来たと思へる生涯が、なぜか今宵は警めなしに顧りみられる。そして、そろそろ、まんさんたる自分の生涯の中に一筋|貫《つらぬ》くものがあるのに気がつき出した。これを、今すこし仔細《しさい》に追及し、検討して見るとしても、あながち卑怯未練と自己嫌悪に陥るにもあたるまい――否、何かしらず、却《かえっ》て特別に自分に与へられた道の究明といふやうなけ高い、気持さへ感じられもして来るのだつた。
 秋成は湯鑵の蓋《ふた》をとつて見た。煮くたらかされて疲れ果て、液体のまん中を脊《せ》のやうに盛り上げて呻吟《しんぎん》してゐる湯を覗《のぞ》いて眉《まゆ》を皺《しわ》めた。物思ひに耽《ふけ》つて居るうちに茶の湯が煮え過ぎて仕舞《しま》つてゐた。秋成は、立ち上つて覚束《おぼつか》ない眼で斜めに足の踏み先きを見定めながら簷下《のきした》へ湯鑵の水を替へに行つた。疝腫で重い腰が、彼にびつこを引かせた。
 燠《おき》のたつた火を、その儘《まま》にして彼は、湯鑵を再びその上へかけた。彼はもう茶を入れて飲む方の興味は失つて居たが、水が湯になるあの過程の微妙な音のひびきは続けて置きたかつた。突き詰めて行くこころを程よく牽制《けんせい》してなめらかに流して呉《く》れる伴奏であるやうに思へた。彼は耳を傾けたが、風はもう吹きやんで、外はぴりぴりする寒さが、寺の堂も山門も林をも、腰から下だけ痺《しび》らせつつあるのを感じた==京は薄情な寒さぢや。と彼はここでひと言、ひとりごとをいつた。彼は元通りきちんと坐《すわ》つて、考への緒口《いとぐち》に前の考への糸尻《いとじり》を結びつけた。――愛しても得られず、憎んでも得られず、勝負によつて得られず、ただ物事を突きつめて行く執念のねばりにだけ、その欲情は充《み》たされたのだつた。だが、この世の中にそれほど打ち込んで行けるほどのものがあるだらうか。いくら執念のねばりを愛する欲情であるといつて、むやみに物を追ひ、獅噛《しが》みついて行くわけには行かなかつた。魅力といふものが必要だつた。そして魅力の強いものほど飽きが来た。飽きが来なければ、むかうが変つた。
 生母には四つの歳に死に訣《わか》れた。曾根崎の茶屋の娘だつた。場所柄美しくない女ではなかつたらうけれども、誰も父の名を明かして呉《く》れないとこ
前へ 次へ
全11ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング