から辛抱は強かつた。踏みつければ踏みつけられたまま伸びて行くといふたちの女だつた。それを幸《さいわ》ひ、こちらもまだ遊び盛りの歳だものだから、家を外に、俳諧《はいかい》、戯作《げさく》者仲間のつきあひにうつつを抜した。たまにうちへかへつてみると、お玉の野暮《やぼ》さ加減が気に触つた。自分と同じ病気なのも癪《しゃく》に触つた。遊びは三十を過ぎても慢性になつて続いて行くうちに、三十七の歳に養父は歿《な》くなる。紙屋の店を継いではじめて商売を手がけてみた。慣れぬこととてうまくゆく道理はない。その弱り目に翌年|逢《あ》つた店の火事、次の一年間は何とか店を立て直さうとさまざまに肝胆を砕いてみたが駄目《だめ》だつた。そしておよそ商家に育つて自分くらゐ商売に不向きな性質の人間はないと悟つた。何故《なぜ》といふに、みすみす原価より高く利徳といふものを加へて品物を、知らん顔して人に売るといふことが、どうも気がひけてならなかつたからである。商品に手数料の利徳といふものをつけるのは当りまへであるには違ひなからうけれど、性分だ、その利徳はただ儲《もう》けの為に人に押し付けるやうで、客に価値を訊《き》かれても、さそくに大きい声では返事も出来なかつた。こんな風だから三年目には家を潰《つぶ》して田舎落《いなかお》ちした。そしてあるものはたいがい食ひ尽して仕舞《しま》つたから身過ぎのため何か職業を選ばなければならなくなつた。年も四十に達したので、もうぐづぐづしては居られない、まあ、知識階級の人間には入り易《やす》さうに考へられた医学で身を立てることに決心した。
当時日本の医学界には、関東では望月三英、関西では吉益東洞《よしますとうどう》、といふやうな名医が出て、共に古方《こほう》の復興を唱へ、実技も大《おおい》に革《あらたま》り、この両派の秀才が刀圭《とうけい》を司《つかさど》る要所々々へ配置されたが、一般にはまだ、行き亙《わた》らない。大阪辺の町医村医は口だけは聞き覚えた東洞が唱道の「万病一毒」といふモツトーを喋舌《しゃべ》るが、実技は在来の世間医だつた。三年間つぶさに修学した秋成は、安永四年再び大阪へ戻つていよいよ医術開業。そのときにかういふことを決心した。「医者はどうせ中年の俄仕込《にわかじこ》みだから下手で人がよう用ひまい。だから、足まめにして親切で売ることにしよう。しかし、いかに俗に堕
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