た。やつぱり自分のしんにうづいてゐるまた何物かを追ひ求める執念が自分の命を死なさないのか。この妄執の念の去らぬうちは、自分はいやでもこの世に生かせられるのではあるまいか、それは、辛《つら》く怖ろしいことのやうに思はれる。また、楽しい心丈夫な気持もする。人間にある迷ひといふものは、寿命に対してなかなか味のある働きをしてゐるやうにも考へられる。
 疑念ふかい彼はまた、若い頃からどの女を見ても醜い種が果肉の奥に隠されてゐて、自分の興を醒《さま》した。男を誘惑して子を生んでやらう。産んだ子を人質に、男を永く自分の便りにさしてやらう、生んだその子に向つては威張《いば》つて自分を扶助《ふじょ》さしてやらう――かういふいはれの種を持たない女は一人も無からう。もつとも女自身が必ずしもさういふ魂胆を一人残らず知つてゐて男に働きかけるわけではない。たいがいの女は何にも知らずに無心に立居振舞ふのである。だがその無心の振舞ひのなかに、もう、これだけの種が仕込まれてゐるのだ。女が罪が深いとほとけ[#「ほとけ」に傍点]も云はれたが、およそ、こんなところをさしたのではないか。自分が遇《あ》つた女にはみなこの罠《わな》があつて危くてうつとりできなかつた。また、しやうばい女などはそれとはまるで違ふ種だが、やつぱりかならず持つて居る。男を迷はさず男の魂を飛さずに惚《ほ》れられる女は一人も無かつた。惚れればきつと男の性根を抜き、男を腑抜《ふぬ》けにして木偶《でく》人形のやうに扱はうとする。男に自分の性根をしつかり持ち据ゑさせ乍《なが》ら恍惚《こうこつ》たる気持にさして呉《く》れる女は一人も無かつた。さういふ女のことごとくが、男の性根のあるうちは、まるでそれをさかなに骨があるやうに気にしてむしりにかかる。骨がきれいにむしられて仕舞《しま》ふと安心して喰べにかかる。
 酒のやうに酔はせる女はたくさんある。茶のやうに酔はせる女は一人も無い。栄西禅師《ようさいぜんじ》の喫茶養生記の一節を思ひ出す。「茶を飲んで一夜眠らぬも、明日身不[#レ]苦」と。一夜眠らざるも明日身苦しからぬ恋があらうか……そんなわけから、二十九のとき貰《もら》つた妻といふものにも何の期待も持たなかつた。年頃になつたから人並に身を固めるといふ世間並に従つたまでだ。名をお玉といつて自分とは八つ違ひだつた。大阪で育つた女だが、生れは京都の百姓の娘だ
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