させた。彼はこの時までに俳諧では高井|凡圭《きけい》、儒学は五井蘭州《ごいらんしゅう》、その他|都賀庭鐘《つがていしょう》、建部綾足《たけべあやたり》、といふやうな学者で物語本の作者である人々についても、すこしは教へを受けたが、大たいはその造詣を自分で培《つちか》つた。それも強《し》ひて精励努力したといふわけでは無い。幼年から数奇《すうき》な運命は彼の本来の性質の真情を求めるこころを曲げゆがめ、神秘的な美欲や愛欲や智識欲の追躡《ついじょう》といふやうな方面へ、彼の強鞣な精神力を追ひ込み、その推進力によつて知らぬ間に、彼の和漢の学に対する蘊蓄《うんちく》は深められてゐた。彼の造詣の深さを証拠立てる事は彼が三十五歳雨月物語を成すすこし前、賀茂真淵《かものまぶち》直系の国学者で幕府旗本の士である加藤|宇万伎《うまき》に贄《し》を執《と》つたが、この師は彼の一生のうちで、一番敬崇を運び、この師の歿《ぼっ》するまで十一年間彼は、この師に親しみを続けて来たほどである。この宇万伎は、彼が入門するとたちまち弟子よりもむしろ友人、あるひは客員の待遇をもつて、彼に臨み、死ぬときは、彼を尋常一様の国学者でないとして学問上の後事をさへ彼に托《たく》した。そして、この間に彼の名もそろそろ世間に聞え始めてゐた。しかし、それほどの師にすら、秋成の現実の対照に向つては、いつも絶対の感情の流露を許さぬ習癖が、うそ寒い疑心をもち==師のいひし事にもしられぬ事どもあつて、と結局は自力に帰り、独窓のもとでこそ却《かえっ》て研究は徹底すると独学|孤陋《ころう》の徳を讃美して居る。
 かういふやうに、人に屈せず、人を信ぜぬ彼であつたが、前の養母にも一度|衷心《ちゅうしん》感謝を披瀝《ひれき》したといふのは、享和《きょうわ》元年彼は六十八歳になつたが、この年齢は大阪の歌島稲荷社の神が彼に与へた寿命の尽きる歳であつた。養母は秋成が四つの歳に疱瘡《ほうそう》を病み、その時死ぬべき筈《はず》の命を歌島稲荷に祈つて、彼が六十八歳まで生き延びる時を期して自分の命を召します代りに、幼い命を救はれよと祈つたのであつた。その六十八歳になつても彼は死なず、祈つた養母自身がそれから二年目に死んだのが、自分の身替りのやうに有がたく思はれ、死骸《しがい》に向つてしみじみ頭を下げたのだつた。それにしてもそれから今日までまた余りに生き延び
前へ 次へ
全22ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング