の店を引受けてから急に左り前になつたその衰運をまともにつきあひ、わびしいめに堪へながら、秋成がやつとありついた医業にいくらか栄えが来て、楽隠居《らくいんきょ》にして貰《もら》つたところで、また、がたんと貧乏|住居《ずまい》に堕《お》ちたのだつた。だから秋成にしてみれば、まま母に、何とも気の毒でしやうが無かつた。そこで、五十五の男が母の前に額《ぬか》をつけ、不孝、この上なしと、詫《わ》びたのだつた。すると、まま母は==何としやうもない事だ。と返事して呉《く》れた。ものを諦める、といふほど積極的に気を働かす女でなく、いつもその儘《まま》、その儘のところに自分を当て嵌《は》めた生活を、ひとりでにするたちの女だつた。けれども、この母のこの返事は、可成《かな》り秋成に世の中を住みよくさして呉《く》れた。この母と妻の母と、もう五十に手のとゞきさうな妻と、三人の老婆が、老鶏《ろうけい》のやうに無意識に連れ立つて、長柄の川べりへ薺《なずな》など摘みに行つた。
かういふ気易《きやす》さを見て、暮しの方に安心した自分は、例の追ひ求むるこころを、歴史の上の不思議、古語の魅力へいよいよ専《もっぱ》らに注ぐのだつた。
養家の父母の甘いをよいことにして、秋成はその青年期を遊蕩《ゆうとう》に暮した。この点に於て普通の大阪の多少富裕な家の遊び好きのぼんちに異らなかつた。当時流行の気質《かたぎ》本を読み、狭斜《きょうしゃ》の巷《ちまた》にさすらひ、すまふ、芝居の見物に身を入れたはもとよりである。そこに俳諧《はいかい》の余技があり、気質本二篇を書いては居るが、これは古今を通じて多くの遊蕩児中には、ままある文学|癖《へき》の遺物としてのこつたに過ぎない。ところが、三十五歳、彼の遊蕩生活が終りを告げるころ、彼は突如として雨月物語を書いた。この物語によつて彼の和漢の文学に対する通暁さ加減は、尋常一様の文学青年の造詣《ぞうけい》ではない。押しも押されもせぬ文豪のおもかげがある。遊蕩青年からすぐこの文豪の風格を備《そな》へた著書を生んだその間の系統の不明なのに、他の国文学者たちは一致して不思議がつて居る。殊《こと》に彼自身、二十余歳まで眼に国語を知らず、郷党《きょうとう》に笑はれたなどと韜晦《とうかい》して人に語つたのが、他人の日記にもしるされてあるので、一層この間の彼の文学的内容生活は、他人の不思議さを増
前へ
次へ
全22ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング