勝ずば
岡本かの子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)孵化《ふか》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]
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 夜明けであった。隅田川以東に散在する材木堀の間に挟まれた小さな町々の家並みは、やがて孵化《ふか》する雛《ひな》を待つ牝鶏《ひんけい》のように一夜の憩いから目醒めようとする人々を抱いて、じっと静まり返っていた。だが、政枝の家だけは混雑していた。それも隣近所に気付かれないように息を殺しての騒ぎだった。政枝が左手首を剃刀《かみそり》で切って自殺を計ったという騒ぎである。
 姉の静子は医者を呼んだその足で隣町の若い叔母の多可子を呼びに廻った。かかりつけの医者が人力車に乗って駈けつけた。父親の寛三は血を吹く政枝の左手首を手拭いの上から握りしめていた。
「政枝、先生に手当をして貰《もら》え、な、判ったか」
 父親は涙にうるんだ両眼を娘のそむけた横顔に近づけながら、おろおろ声で頼むように言い続けた。だが政枝は寝床の
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