た?ある晩秋だか初冬の夕だかに斯んな田圃から町の方へ、黄ろい大きな前歯をむき出したお婆さんが一人白髪頭をふりさばいて黙つて歩いて行く――こんなことが凄いやうに描いてありはしませんでした?」
 私は云ひ終ると、身内がぞつとしました。そしてそんな妖婆が後からてつきり随いて来る様な恐迫観に急に襲はれ初めました。肩をすぼめて急ぎ足になりますと兄も淋しそうに笑ひ乍ら私とならんで歩き出しました。
     ○
 軒先から、広い奥屋のあちこちの小径に幾条となく敷き分けられた庭石のあひだあひだに、白、赤、黄、淡紅、の松葉ぼたんの花が可憐な、しかし犯しがたい強い気稟をこめて、赫灼たる夏の真昼の太陽の光にあらがひ乍ら咲いて居ました。東京近郊或る勝景地の旧家である私の家の奥座敷はその日家来を大勢ものものしく率ゐた或る高貴の人の遊行の途次の休憩所でした。数名の下婢は居てもそういふ高貴の身辺へは、家の秘嬢を侍らすのが、その家の主人の忠勤を象徴するといふならはしが、殆どうごかすべからざる田舎の旧家の何代も続いた掟なのでした。丁度女学校を卒業して家へ帰つて居た私が、さしづめその役を勤なければなりませんでした。家事を嫌つて文学の書類など読みふけつて居た気位の高い私が、それを高貴から加へられる一種の屈辱的な役目と考へ素直に引きうけてやらふとするはづはありませんでした。が、気の弱い父の強ての懇願にしぶしぶ承知したのでした。私はお嫁にでも行く様な盛装をさせられました。下婢が次ぎの間まで茶や菓子を運ぶ。それを私がうけとつて、形式的にその高貴の前へ供へればよかつたのでした――私の動作は、恐らく随分ぎごちなくて不愛想であつたにちがひありません。が、その五十近くの高貴の人は何故か非常に機嫌がよくて、あたりを顧みては快談哄笑をしつづけて居ました。
 やがてその人は何かふと思ひついた様でした。と、にはかに私に後を向けて浴衣着の上半身を裸体にしました。そして、家来に命じて縁先きに水の汲んであつた洗面器のなかからタオルをしぼつて持つて来させました。私はその人の咄嗟の間の動作に注目しました。丸い鉢開きの半白の頭を載せた短い首が、大酒の為か赤く皮膚を焦して居ました。隆鼻に引きしめられた端麗な前面には似もつかないいくらかの野卑な感じをうけて、私は思はず眼を逸らしました。そふとも知らずその人は、家来から受け取つたしぼりタオルを
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