ねぢつて私の方へさし出しました。
「あんた、済まんが、わしの背中を拭いて呉れんか。」
私は咄嗟の間にむつとしました。そしてそのタオルをうけとらふともしませんでした。
「嬢さん、是非たのみます。あんたで無いと涼しふならん。」
その人は「私が致しませふ。」と傍から言つた家来の手を斯ふ云つてしりぞけて、私の顔を見かへつて笑つた――その笑ひは、今までその人の顔に一度も私が見たことのない下卑た笑ひであつた。私はかつとした。次の瞬間、私はその人の手から奪ふ様に、タオルを取ると、その人の背の真中のたつた一つの大きなほくろをめがけて、矢庭にそれを打ち付けた――私は、あつけにとられて居る一同をあとにして火の様に顔をほてらせ乍ら、遥か隔つた自分の居間へさつさと這入つて行つて仕舞つた。其処に思ひがけなく兄が居ました。兄は私の行為を聞いて会心の笑みをもらしました。母が間もなく跡を追つて来ました。そして私がその事を話すと男の児の様な快活な母は大きな口を開いて笑ひこけるのでした。が、気の弱い父は奥座敷へ伺候しました。その人は、さすがに悠々と家来に汗をふかせ乍ら、
「はは、はは、仲々気概のある嬢さんじや、貴公は面白い嬢さんを持たれたぞ。はは、はは。」と哄笑にまぎらしてあとに少しの不機嫌な様子も残さなかつたといふ。でも父は、二三日は、父の不逞な娘である私には決して口をききかけて呉れませんでした。日頃から私が親しみ得なかつた田舎の人達が私になげて居た非難ざんぼふが彼の人達には神様であるこの高貴な人への私の反逆的行為によつてますます、彼人達の間に拡大され確実にされました。
底本:「日本の名随筆 別巻86 少女」作品社
1998(平成10)年4月25日第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集 第十四巻」冬樹社
1977(昭和52)年5月第1刷発行
入力:門田裕志
校正:林 幸雄
2002年12月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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