か一つの問題に捉へられるとそれからなかなか解放されない性質でした。感情家だつたからでせう。そんな時、相手の立場はあまり兄には考へられない一種の愛すべき利己主義と兄はなるのでありました。
「ねえ、君、そふだらう、神が全能の力を持つならば、何故、その力をはたらかしてこの世の悪を立ちどころに一掃しないんだ。この疑問が解決されないうちは僕はやつぱり神の存在なるものを全々信じ切ることは出来ないんだ。」
斯ふ云ひ終つて苦しげに兄は溜息をつきました。兄はその頃、詩歌小説にふけりすぎて神経衰弱になつた結果、或友人の深切に誘はれて、キリスト教信者となりかけて居ました。内気な兄は、教会の牧師に面と向つて、思ふままに質問が出来ないのでおのづとそれが内に鬱没とし、やがて私の方へ発して来るのでした。
「たとえ全身をもつて信仰し得られたとしても、僕は寂しいよ。芸術の美と宗教の善と到底一致しないだらうからね。芸術家たらうとする僕にはこれが大問題だ。」
聞き手の私が確答し得なかつたのは勿論でした。私はまだ女学校五年の生徒たるに過ぎませんでした。しかし兄は、返事などはどふでもよかつたらしい、何れの場合にも兄を敬愛するセンチメンタルな妹が、おとなしく傍に居て熱心に自分の云ふことを聞いて呉れゝばそれで宜かつた。それは或る日曜日の午後の散歩の途次でありました。行手には王子辺の工場の太い煙突がはるかに薄ぐもつた空にそびえて立ちその下にぼかした様な町の遠景が横長に見える。道の四つ辻には必ず一かたまりの塵埃が積み捨られてある三河島たんぼを兄と妹は歩いて居たやうに覚えます――。今過ぎて来た田舎町の店々に熟れ切つて赤黒く光つて居た柿の実の色が眼に残つて居る。刈つたあとの稲株が泥田の面にほちほちと列をなし、ところどころに刈らない稲が、不精たらしい乱髪の様に見える。小川の橋の袂には大根菜の葉を洗ふ老若の男女。それもやがて杜絶えて、一筋の往還がまつたく蕭々たる初冬の象徴の様に茫漠とした田甫[#「甫」にママの注記]なかに来しかたはるかに、行く手果てなく続くのでありました。灰色の空はいよいよ低く重く、今にも一しぐれ来さうな心細さに思はず向後をふり返つても人影らしいものはほとんど見えず、烏がところどころにどんよりと黒い翼をやすめて居るばかりです。
「淋しいですね、兄さんツルゲネーフの散文詩集のなかにこんなのがありませんでし
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