けば母御ばかりがぼんやり。奉公前によう逢うたあの追分けの松の根方に佇《たたず》んで待って見ても、それかと思うはまぼろしばかり。ほんの姿は遂に来もせず、――それとも若《も》しや源兵衛さんに心変りでも、――ひょっとして若しそんなことにでもなっていたら、わたしゃどうしたらよかろうかしらん。おや、またしてもわたしの取越苦労。「忘れまいぞえあのことを」「忘れまいぞえあのことを」何も時節因縁と諦めてしまえば、それで済むのだが。と言う口の下から、もう此の逢い度い心は、……ええ、も、いっそ、今日は、お上人さまにお目にかかるのはやめてしもうて、源兵衛さんに逢う一筋に骨を折ってみましょう。お上人さまはお師匠さんでも根は他人、源兵衛さんはわたしの夫。源兵衛さんに逢わずに往んでは、それこそ此の胸が焼け尽してしまうわ』
[#ここから2字下げ]
(おくみ、決心してすっくと立上る。いつの間にか蓮如上人弟子の竹原の幸子坊一人供につれ、上手奥より出て来て様子を見て居たが、おくみが立上る途端に上人は進み出て)
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
蓮如『おくみ、そりゃわしより源兵衛に逢うて行くがよい。わしは汚ない年寄りじゃものなあ』
[#ここから2字下げ]
(おくみ、びっくりして、それが蓮如上人だと判ると、がばと突き伏す)
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
おくみ『まあ、お上人さま。わたくしは恥しゅうて顔もあげられませぬ。お人の悪いお上人さま。立聴きなぞなされて』
蓮如『は、は、は、は、まあ、そう恥しがらんでもよい。恋も因縁ずく。勧めもせられん代りに障《さまた》げもせられん。ただ忘れてならぬのは六字の名号《みょうごう》じゃぞよ』
[#ここから2字下げ]
(おくみ、起上って合掌)
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
おくみ『お慈悲は身に染みて身体が浮くようでございます。然《しか》しその御名号が唱《とな》えられぬばっかりに、一度お上人さまにお目にかかってお教えを頂こうと存じましてお探し申して居りました』
蓮如『ふむ、それは気の毒とも何ともはや、さては信心退転でもいたしたか』
おくみ『退転どころではござりませぬ。父母に死なれたたった一人の孤児。お念仏は父母の遺身《かたみ》でもあればまた、わたくしの浮世
前へ
次へ
全18ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング