その儘《まま》聴いて泣寝入りとは、どうしてもわしには考えられんのだ』
おさき『わたしにも、そう思われます』
源右衛門『すれば、誰かしらの血を見ることじゃ』
おさき『おお、誰かしらの………』
源右衛門『なあ、おさき』
おさき『はい』
源右衛門『おまえと夫婦で暮したのも三十年あまり。不仕合せなおまえでもなかったと思うが』
おさき『よう判っておりまする。これも仏さまのお蔭、あなたのお蔭。あらためてお礼を申《もうし》ます。わたしに異存はございません。どうぞ思い立った通りにして下さいませ』
源右衛門『すれば、このわしの首をわしの思いの儘に使ってもいいというのか』
おさき『御報恩の為め、また人々の為め』
源右衛門『承知して呉れて、先ずは安心。ところでもう一つの首じゃ』
おさき(顔を押えて)『おお、どうぞ、それを口に言うては下さりますな。それをこの耳に聴いたなら、わたしは息も絶え果ててしまいます。ただ黙って何事も、御宗旨の為め、人々の為めと、わたしに諦めさせて置いて下さりませ。然し二十を過ぎてまだ間も無い若者。そして源兵衛は、あの利発な美しいおくみ坊と兼ね兼ね深く思い合うた仲。二人をどうぞ一時なりとも晴れて夫婦にしてやってから、お役に立てて下さりませ』(泣く)
源右衛門(同じく泣きながら)『辛《つら》い娑婆《しゃば》とは、容易《たやす》く口では言っては居たが、斯くまで辛いと知るは今が始めて。これにつけても期するところは弥陀の浄土。いずれ彼方で待ち合すとしよう。ぐずぐずしているうち心がにぶろうも知れぬ。では、いつとは言わずに直ぐに今から、伜《せがれ》を連れに山科へ出かけるとしようかい』
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(源右衛門行きかける。おさき留める)
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おさき『行きなさるなら門出の仕度。此の世のお礼やら、あの世のお頼みやら、仏様にお燈明《とうみょう》なとあかあかあげて、親子夫婦が訣れのお念仏唱えさせて頂きましょう』
源右衛門『よいところへ気が付いた』
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(二人で仏壇の扉を開け、礼拝の支度)
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     舞台半転

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(源右衛門宅の裏の浜辺。源右衛門の家の背戸は、葉の落ちた野茨《のいばら》、合歓木《ねむのき》、うつぎなどの枝木で殆んど覆われている。家
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